アトリエ訪問

新連載 第1回



書家 伊丹東龍さん
− 孟子/三楽 いい弟子を育てたい −

訪問者:松原 清





書斎 紙のストックの前で 伊丹東龍氏

 

 新型コロナ感染の緊急事態宣言が解除され、やや動きやすくなった6月7日に徳島市在住の書家・伊丹東龍さんの書斎を訪ねた。

《生い立ち》
 今では玄心会副会長であり、徳島書道界の重鎮のひとりとしてある東龍氏。相当前から書に関わってきたのだろうと思っていたが、意外や意外、本格的に書に取り組み出したのは昭和52年(30歳)からと知った。
 伊丹東龍(本名:通公〈みちひろ〉)は、昭和22年4月8日に徳島市で生まれた。戦前の伊丹家は小松島市赤石一帯の大地主であったが、戦後の農地改革でその殆どを失ない一家は何回も引っ越しを重ねたという。
 そんな中、小学2年生から4年生の3年間、一日も欠かさず書道の稽古を父から受けた。稽古が終わらないと遊びにも出られない毎日であったという。無論、漢字楷書とひらがなであったが、その3年間以外は全く強制なく、小学高学年、中学、高校と習字でも常にトップクラスの成績だった。これは後で分かったことだが、父は息子に書道を教える(何かを残す)ために青潮会徳島支部の西南龍に師事したようだ。父は後に伊丹南相の号で書道塾を開設しており、東龍の号もこの関連から生まれたと聞く。
 学校の成績は常に上位で、進学校の城南高校から学習院大学へと進んだ。




沈栓期詩

改組新第6回日展(2019年

 

《書家への転身》
 書家への契機となったのは、父の健康の悪化により昭和50年暮れに徳島へ帰省し、父の書塾を受け継いだことに始まる。この頃父は木村知石に傾倒。通信で師事していて、昭和51年の玄雲展に出品した作品が特選を受賞。しかし、5月の授賞式を待たずに4月に死去。東龍氏は代理授与として知石宅を訪問、自分が継いで師事することを許されるのである。翌年、有馬で開催された玄雲会錬成会に参加する。




高啓詩〈蝋箋〉

第13回 日展(1981年)

 

 《玄雲から玄心へ》
 錬成会の末席が自分、一番前の中央にいたのが劉蒼居で、とにかく木村知石師の魔法のような運筆と作品に魅了されて言葉をなくしたという。自分の内にあった書の意識は根底から崩され、猛勉強を開始する。その真摯な姿勢が評価され、5年後の第13回日展に初入選を果たし、日展入選組のアメリカ研修旅行に参加。現地で三浦事件に遭遇するも、劉蒼居、明石聴濤らとの親交も深めている。後、知石師逝去の昭和58年11月までに日展入選3回の実績を積んだ。この実績が玄心会創設時に幹部としての参加を実現せしめ、少数精鋭の飛展のメンバーとして更なる飛躍を遂げるのである。




寿司・割烹 屋号揮毫
「金太樓」(徳島県阿南市)

 

  《そして次の時代を》
 東龍氏に古筆履歴を聞くと、玄心は王鐸、米*が主軸だが祝允明、黄庭堅、伊秉綬にも挑戦した。が、鄭板橋の行楷の中の隷書・隷意の虜になって通常の行草連綿が一時書けなくなったとも。最近は板橋、梧竹に通じる「間」の妙味に魅かれると言う。

* * *

「今は我欲はない。孟子三樂の一つ、いい弟子を育てたい」を実践したいと笑顔で語る東龍氏が印象に残った。