折々の眼(3) 展覧会で観るのは「展覧会」  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)

               

 私の著述にいくらかでも興味を抱く読者がもしいるとすれば、今回の見出しに接し、「ああ、またか」と慨嘆するかもしれない。単発でなく、定期的に執筆機会が与えられる場合、できるだけ一度は同じこのテーマで書きたいと心掛けているからである。この執拗さは、自分でいうのが憚られるけれど、展覧会の概念についてのちょっとした啓発的運動に近い、と考えられなくもないのではなかろうか。  

 改めて、問いたい。展覧会はいったい、何を観るところか。決まっているじゃないですか「作品」でしょ。異口同音に、ほとんどがそう答える。当たらずとも遠からずなのだが、厳密にはノーだ。正しい答えは、「展覧会」。つまり展覧会は個別 に作品を観るという以上に、全体、つまり展覧会そのものを観る場なのだ。狐にでも憑かれたみたいに、キョトンとしないでほしい。別 にあなたをからかっているわけじゃないのだから。  

 作品だけを観るのなら、必ずしも展覧会場でなくてよいのだ。作家のアトリエでも、サロンでも、喫茶店でも、公園でも、どこだってよい。雨風に直接曝されない、光がいっぱい在る場所なら。  

 展覧会を観る、ということ。つまりそれは、さまざまに条件づけられた構造の展示空間で、個々の作品がどのように創造的に展示構成されているか、空間的に観極めることなのである。  

 作品を観ても、現実には、肝腎の展示空間全体に眼を注がない人が何と多いことか。例えば、こんなふうに。

 会場へ入る。白い壁面に沿って並ぶ最初の一点へ、まず佇む。直ちに脇か、下方に貼られるキャプション(タイトル)カードを確認する。改めて今度は、画面 に視覚を集中させる。そして追い立てられるように、次の作品へと移動する。  

 以上のアクション・パターンを繰り返えし、いつの間にやら出口付近へさしかかる。よほど感動するか、気に掛かることがないかぎり、Uターンして、また始めから観直すなど決してしない。個々の作品の前をあわただしく通 り過ぎて、展観は終わる。どんな空間に、どのように個々の作品が展示構成されているかなど、まったく意に介さないのだ。せいぜい、個々の作品全体の漠然とした印象しか、自宅へ持ち帰ろうとしないのである。  

 条件づけられたスペースに、どのように展示構成するかで、作品の良し悪しや、観え方がまるで異なってくる。展示構成は、もう一つの創造行為であるばかりでない。批評とも微妙に関わってくる。私が二十年近く、一貫して展示構成を重視し、自らも手掛けてきたのは、そうした理由からなのだ。  

 因みに、この秋から来年にかけて予定される私の展示構成“作品”は、「小野寺正光展」「黄色いテープの向こう側」、「東京国際写 真集団海外交流作家展」、「岡野浩二展」、「千正博一展」、「丸山正三展」、「堀岡正子展」である。

 

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