続・足裏庵日記(4)   ― 常 識 ―    中野 中(美術評論家)

               

 テレビを享楽しようと、ミサイルを呪おうと、私達は、機械を利用する事を止めるわけにはいかない。機械の利用享楽がすっかり身についた御蔭で、機械をモデルにして物を考えるという詰らぬ 習慣も、すっかり身についた。
(略)  

 なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々と新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えている所にある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。―  

 右は、小林秀雄が「考えるヒント」連載ですでに昭和34年、今から43年前に述べていることである(文春文庫より)。機械をコンピューターに変換したら21世紀の今の文章にしても通 用するのではなかろうか。  

 常識とは、辞書風に言えば、健全な社会人が共通に持つ普通 の観念であり、長い時間、風土や歴史に晒され、共同地域が保身のために取り決めた共通 事項、あるいは互いに事をスムーズに運ぶための了解事項とでもなろうか。従って常識は生活の場が変ったり会社を移ったり、付き合う相手が変るものであり、変る可きことなのである。

であるにもかかわらず、錦旗のごとくいつでも持ち出すことはタブーなのである。知識と教養が違うように、常識は良識とはイコールにならないのである。知識は運用して教養になるし、常識は適材適所に応用されて良識になるのではなかろうか。  

 厳密に言って、共通に持つ普通の観念などあるのだろうか。むしろそれらは固定観念であり、時代遅れの流行のようなものなのだ。  例えば、テロ行為は言語道断、許されるものではない。これは世界の常識である、などと、横暴なことを言われてはテロリスト(を支持するわけではないが)は可愛そうだし、アメリカは正義の名において報復攻撃を行うことを可とするのも全く同次元でおかしな論理というか思考であり、アメリカ人の多くが、あるいは世界の多くの賛同者がいるからといって、決してだから正しいとは全的に言えないし、常識であるわけがない。  

 多数決や平均値の危うさがここにある。  だからといって、常識のないのも困りものだ。がこんなものは否応なく周りから押し付けられて身についてしまい、訝ることを止めてしまう。むしろ恐れるべきは訝りを忘れてしまうことかも知れない。機械に任せておけば間違うわけがないと。  

 しかし新しい状況、コトにはデータがないから機械は役に立たない。その時のためにも常識を訝らなければ対応出来まい。

 

 

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