折々の眼(6) 退屈という名の拷問     ワシオ・トシヒコ (美術評論家) 

               

 私は映画ファンだが、演劇も同じくらい好きだ。1970年代から80年代にかけ、小演劇、商業演劇問わず、いろいろと追いかけた。ところが美術評論に携わるようになってから、次第に足が遠のくようになった。観劇には、時間も、お金もかかるからである。  

 ことしの二月に入ってまもない或る厳寒の夜。画廊の仕事をつづけるべきかどうか悩む若い女性の相談にのるついでに、久しぶりに小演劇へ誘った。私が評価する画家の一人から、舞台美術を担当した旨の便りがあったからである。ところは、京王井ノ頭線の駒澤東大駅前のアゴラ劇場。平田オリザがプロデュースしているのだそうだ。スペースは地階で、全体が古代ギリシャのアゴラ(広場)をイメージさせる擂鉢状になっている。しかし、いかにも狭い。狭いので、階段席の勾配がとても急だ。怖いけれども、画家の舞台作品をよく観ようと、最上列に並んで腰掛けた。結果 的に、それが大失敗になろうとは……。  

 芝居は、三島由紀夫の小品を含む三本をオムニバス形式に仕立てている。これまでも結構退屈な芝居を我慢して観た体験があるが、これは遙かに忍耐の許容範囲を越えていた。退屈を通 り越し、苦痛以外の何ものでもない。途中で席を蹴りたかったが、群がる人を掻き分けながら、例の急勾配の階段を下っ

 

て行くのは、とても無理だった。「ヘタくそ、やめろ」と叫びたかったけれど、同伴の女性もいることだし、それだけは何とか押し留めた。その代わり、如何に退屈なのか終演までぶつぶつ呟きつづけた。セリフが、ぜんぜん練られていない。身体表現がまったく乏しい。芝居というより、まるで音声だけのラジオ放送を聴かされているようなもの。暗く狭い逃げ場のない檻に監禁され、退屈という名の拷問を執拗に繰り返されているようなものなのである。 

 三本目に入って少し芝居になりかけ、いくらか救われてフィナーレとなった。パラパラの拍手。向かい側の席の観客たちも、半ばあきらめ顔だったり、うたた寝していた。帰ろうとして立ち上がると、前列の女性が振り返り、「うるさかった。やめてほしかった」と私に抗議した。途中、席を立とうにも立てないスペースの物理的構造のこと、率直なブーイング行為も観客の権利の一つで、それをしなければ日本の芝居が育たないこともきちんと話したかったけれど、女性はそそくさと闇に消えた。マナーだけでは、ダメなのだ。その点、美術の展覧会はいい。感動すれば、作品の前にいくらだって佇んでいられる。面 白くなければ、一瞥するだけですむ。観劇はそうはいかない。高い入場料を払って四角い箱の中に監禁状態にされ、逃げることもままならないのだ。もしもこの公演のように、退屈で幕間がなければどれほど悲惨か、改めて痛感させられた。  芝居がハネたあと、二人で向き合ってつついた鍋物が、冷えきった身と心をどんなに芯まで暖めてくれたことか。

 

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