続・足裏庵日記(7)  ―頭 山―   中野 中 (美術評論家) 

               

  案ずれば、世のなか理解の難いことばかりだ。大はわが心の宇宙から、小はあえて正義をふりかざす戦争まで。頭を抱えて左顧右眄しているうちに梅が終わり沈丁花の香りが届き桜の季節となった。  

 桜となればなったで、わが脳髄は少しも休むことを知らずあれこれ悩むのだ。  実は去る2月後旬、早咲きで知られる河津桜を楽しみに一泊旅行とシャレこんだ。というのも、大学時代の友人が定年を機に郷里北海道へ隠棲する、その歓送会を兼ね、その友人の娘婿がやっている河津の鮨店で河津桜の咲く季に、という次第。その夜は雨の夜桜、翌日は晴れたぶんすさまじい人混みで、人波にもまれもまれて帰ってきた。  

 所詮、一泊までしての花見など私には酔狂が過ぎたのだ。カレンダーや、美術館や画廊で全国の名花を楽しむのが似合っているということだ。楽しみな話題といえば、三島市の郊外クレマチスの丘に4月にオープンする「木村圭吾さくら美術館」がある。庭園には様々な桜が、館内には屏風大作の桜が咲くという。  根尾の淡墨桜、山高神代桜、三春の滝桜はもちろん、盛岡の石割桜、奈良の又兵衛桜、京祇園の枝垂れ桜、神田の大糸桜、宇奈月の明日の大桜、あるいは小田原・長興山や奈良・仏龍寺など、全国の桜が楽しめよう。  

 私は町内の小公園の名木を楽しむのが精々だ。  
  桜といえば、落語の「頭山」が思い出される。

 話はこうだ。ある男がサクランボを種ごと食べてしまったため、頭から桜が生えてきた。また

たく間に成長して花を咲かせたが、それがまた実に見事な桜ですっかり評判になり、花見客が次々とやってきて頭の上で呑むや踊るやでどんちゃん騒ぎをする。それが毎日毎日夜昼となく続く。すっかり頭にきた男は、桜がなくなればこんな騒ぎもなくなるだろうと、桜の木を引き抜いてしまった。その跡に大きな穴ができた。  

 するとそこに雨が降って穴は池になった。鮒や鯉がわいて絶好の釣場となってこんどは魚釣りが押しかけてくる。夜になると網船を出して頭の中をぐるぐるかき回す者まで現れる。  こうなってはたまらない。もう我慢がならねえとばかり、男は、  
  「もんどり打ってドブーンと自分の頭に身を投げた」  というオチになる。  

 落語にはこの手の怖い話は、「そこつ長屋」や「死神」などあるが、この「頭山」ほど奇抜な発想で、しかも超現実的(シュール)でブラック・ユーモアなものはなかろう。いずれ江戸時代中半ごろの創作だろうが、実によく出来た話だ。  

 近頃、身近で、あのタマちゃんを巡って「見守る会」と「自然に帰す会」とでひと悶着あった。網でとらえようとアメリカから呼ばれた一人は、「こんな汚れた川では可哀想だ」とひとりよがりな発言をしていた。  立場によって、ものごとがこれほど違ってくる。  

 この二つの話、何やら、イラクを攻撃する米英の戦争を思わせないではなさそうだ。

 

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