折々の眼(8) 複雑な“アンチ巨人”   ワシオ・トシヒコ(美術評論家) 

               

 文筆を業とする人間を、執筆の時間帯で昼型と夜型に大別 すると、私は明らかに昼型に属するだろう。夜はたいがい、テレビでプロ野球の中継放送とヴィデオで映画を見て過ごすことが多いからである。  

 プロ野球については、私は徹して “アンチ巨人”だ。巨人ファンはどちらかというと、チームを前向きに自覚的に選んだというより、巨人的(保守的)社会環境(体制)に無意識のうちに順応し、そうなったにすぎないというのが、ほとんどではなかろうか。  

 テレビのプロ野球中継は、たいていが巨人中心に編成されるので、いくら鈍感でも、選手の顔が毎試合大写 しされ、アナウンサーに名前が連呼されれば、誰だって自然に覚える。いつの間にかファンになっていたとしいても、決して不思議でないだろう。巨人ファンがいくらか幼児的に思えるとしたら、そうした動機のせいかもしれない。  

 しかし私としては、巨人が強ければ強いほど有難い。巨人が弱ければ弱いほど、困ることになる。こう書くと、明らかに巨人ファンだと思われるに違いない。どっこい、そうはいかないのだ。紛れもなく “アンチ巨人”なのである。  

 つまり、こうなのだ。  巨人が強く、早々と大量リードするとたちまち不機嫌となり、テレビの野球中継のチャンネルを切る。そうなるとせいぜい、原稿書きに精を出せるというわけである。

反対に巨人が相手チームにリードされると、嬉しくて、嬉しくてたまらない。ゲームセットになる最後の最後まで画面 に齧りつく。果てには、勝利チームのヒーローや監督インタヴューまで聴かずにすまなくなるから、テレビの中継が終っても、次にラジオまで動員するはめとなる。  

 これで、ざっと四時間以上は費やす。こうなったらもう、原稿を書くどころでない。ヴィデオで映画を見る楽しみも奪われる。体力を消耗し、あとは就寝するだけだ。締切りに追われているときなど、これではやはり困る。したがって告白すれば、“アンチ巨人”にもかかわらず、こころのどこかで、強い巨人を密かに願っている一面 がなきにしもあらずなのである。  

 強い巨人といえば何を隠そう、私もかつて無自覚な巨人ファンにすぎなかった。小学校六年生のとき。隣家の兄貴分的友人に誘われ、後楽園球場へ対中日戦を見に行った。そこで現在でも、プロ野球史上の語り草となっている劇的シーンを目撃する。  

 相手投手が、フォークボール全盛時のエース杉下茂。6対3でリードされた9回裏二死満塁。代打として、樋笠一夫がアナウンスされる。そこでなんと、〈代打逆転満塁サヨウナラホームラン〉の偉業を夜空のスタンドに放ったのである。1956年のリーグ戦開幕直後の3月24日。時、あたかも水原円裕監督の第二期黄金時代の最盛りである。

 

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