折々の眼(10) 著書もまた旅人   ワシオ・トシヒコ(美術評論家) 

               

 前回、私の著書は現在、「三岸好太郎展」の各巡回美術館のアート・ショップで販売される『異色画家論ノート』以外、どこにもないと書いた。  

 ところがさっそく、横浜在住の読者からクレームがついた。「横浜美術館のアート・ショップに、『四方田草炎デッサン集』が常備されている。編著者のあなたが、そんなことも知らないのか」と電話で怒られてしまった。迂闊である。  

 確かにいつだったか、横浜美術館の書棚に岩崎美術社の“美術の泉”シリーズがずらりと並び、私の『四方田草炎デッサン集』と『文銀姫水墨画集ヌード百態』も見た覚えがある。忘れていたのは一九九六年以来、出版からすっかり遠去かっている私の引目のせいなのかもしれない。今更、焦っても始まらない。上梓できる分量 の原稿が、十分に貯っている。機会をじっくり待つしかないだろう。  

 ところで『異色画家論ノート』で評伝の対象としたのが、高間筆子、三岸好太郎、手塚一夫、長谷川利行、小泉清、四方田草炎、高山良策だ。これら異色作家について誰かが書く場合、最近では必ずといってよいほど、この著書が参考文献として扱われ、部分引用されるケースがふえている。嬉しい限りだ。

 きょうは、窪島誠一郎さんの新著『高間筆子幻景』が、版元の白水社から送られてきた。窪島さんとは面 識があるけれど、それほど親しい間柄ではない。それにもかかわらず寄贈されたのは、『異色画家論ノート』所収の高間筆子についての拙文の一部を引用したからなのだろう。こうして窪島さんの新著に引用され、『異色画家論ノート』は、ますます多くの人々に記憶されることになるわけだ。著書がいつの間にか一人歩きしているとは、まさにこういうことなのだろう。  

 話がいくらか飛躍する。著書(書物一般、といってもよいのだが)は一人歩きさせなければならない、というのが私の常日頃の持論だ。たとえ一冊たりとも、著書の一人占めは感心しない。多くの頭脳から頭脳へ、感性から感性へと伝えるために、一人歩きさせなければならない。超オーバーにいうと、著書は世界が共有しなければならない文化的財産なのである。読み了えたらすぐ他人に譲るか、あるいは古書店に売り飛ばすべきだろう。  したがって、断じて署名などしてはいけない。署名したら、古書店に売り渡せなくなる。署名入りのままだと、見返し部分を切り取らなければならなくなる。署名入りのままでは、互いに恥を晒すことにもなる。署名したがる心理がわからないわけではない。だが、死蔵を免れるためにも、著書はできるだけ手離す方がよいのだ。  

 可愛い子には、旅をさせよ。これは何も、人間についてだけの格言でない。著書についても、ピッタリする。著書もまた、永遠の旅人なのである。

 

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