続・足裏庵日記(11) ― 那智の滝 ―   中野 中(美術評論家) 

               

 那智の滝へ行ってきた。いや、拝んできたとか、参詣したと言うべきかも知れぬ が、とにかく念願を果たした思いだ。念願などとおよそ私にふさわしくない台詞だが、何故か那智の滝だけは違った。念願するほどに行きたい処、喰いたいモノなどほとんどない、どちらかといえば淡白なのだろうが、那智の滝だけは別 だった。  

 一体全体、いつ頃から、何故に、なのだろうか。  

 実はこの秋、串本まで行く仕事が入った。本州最南端のあの串本であり、『串本節』に歌われる大島を望める、私にとっては処女地である。その話があった瞬間、これは那智へ行くチャンスだ、何としてもこの機会に那智へ行くべきだと決心した。はじめに予定した週末は台風の襲撃が予想されたため飛行機をキャンセル、翌週末に列車で行くことになった。ために串本は実に遠い処となり、驚くほど時間が掛かる。が列車の旅は好きだから少しも退屈はしなかった。リアス式海岸を行く紀勢本線(きのくに本線)の車窓からの風景に飽きることはなかったが、そのぶん目的地でのスケジュールが強行軍になった。そのことも一話になるのだが今は那智である。取材を終えると若い記者はそそくさとトンボ帰りをした。いつもの私なら、私もそそくさと帰京するのだが、今回は一人居残り、早寝をして翌日の那智行きにそなえた。  

 国宝『那智滝図』(根津美術館蔵)は直に2、3度観てはいる。抑えた採光の中で観る滝図は、黒々とした岩涯を割って真直に落ちる鈍(にび)色の滝が、鋭く豪毅でまことに鮮烈

とこな印象ではあった。目を凝らして良く見ると、山の端に 日輪がかかる、そのことで単に風景画ではなく宗教画だとわかるが、私にとってはそういう認識はまったく ない。山水表現として日本絵画を代表する屈指の名品であるかどうかも正直わからない。わかるのは息詰まるほどの密度濃い静謐さと、豪宕な精神性に惹かれることだ。  

 その日は秋日和の好天だった。那智勝浦から路線バスで滝へ向かう。通 常、一番奥の熊野那智大社まで行って、順に青岸渡寺、那智、滝と降ってくるのが体も楽なのだが、私は一番手前の滝の下車。  

 林間に白いものが見え音だけが聞こえる。聖地ではあるが観光地でもあるのだから過大な期待はするまいと不揃いの石畳を進んで、いきなり滝が眼前に現れた瞬時は息を呑んだ。比較的早い時間だったためか団体客はおらず三々五々の参詣者であったのも良かった。青い空を背景に山を割っていきなり、それこそ虚空からいきなり大量 の水が落下する、その勢い、その激しさ。想像以上の迫力、そして何故か有難く思えてしまった。理屈ぬ きに拝んでいた。無愛想なほどにひたすら落漠する大量の水。轟音。飛沫。  

 そう、今は臥して床にある母が元気なころ、那智のお滝へ行ってみたいと、もらしたことがある。それが私の耳朶に残って特別 な思いとなっていたのかも知れぬ。  

私は長いこと掌を合わせていたようだ。

 

topページへ
2002〜2003 essayへ