続・足裏庵日記(12) ― 熊野古道 ―   中野 中(美術評論家) 

               

 那智滝の参詣を終えた私は、お滝からエネルギーをもらったような気分で気力が充実していた。そこで熊野古道を青岸渡寺、熊野那智大社へと向かって山道を勇躍歩きはじめた。  
  熊野古道とは本来、紀伊半島西岸を通る紀路の古道で、紀路沿いには九十九王子社という若王子を勧請した札所がある。熊野では、平安初期に山岳宗教である修験道が成立し、11世紀には熊野三社権現(本宮、新宮速玉 と那智・青岸渡寺の三山)を巡る三熊野詣でが流行。「蟻の熊野詣で」という言葉が生まれたほどだったという。熊野古道とは往時の紀路と東岸を通 る伊勢路とを指すのだが、私の歩いたのはそのほんの一部である。お滝からのこの古道、石は大小不揃いであり、表面 も平らではない。足の置く場所に意を払って一歩一歩進まないと、足首を捩じったりうっかりすると転倒の危険さえある。一歩ごとに集中が求められる。  
 
  滝に後押しされて元気に古道を登りはじめたものの、10分もしないうちに汗みどろ、足の運びも心もとなくなってきた。山の陽差しは澄んで強く、遮る雲も木立ちもない。空はピーカンに晴れ渡り、古道沿いはブッシュか畑地ばかり。しだいに目はくらみ、足もおぼつかない。お滝にエネルギーをもらったつもりでいたがそれは間違い、錯覚であった。滝のあのエネルギーと対峙するということは、気がついてみれば厖大な気力とエネルギーが必要で、拝む時間に比例して実は消耗していたのだ。ところが、あまりの清々しさについ力がみなぎった

つもりになってしまった。それでなくても普段の運動不足に加え、早や初老の域だ。  
 
  一歩一歩踏み出す足が重くなる。さりとて今更戻るのもシャクだ。一歩踏み出す。足場が悪いから慎重にならざるを得ない。足の踏み出しに集中する。そのことだけになる。細い足場の悪い登り道をただ一人ゆく。バスで上(熊野大社)まで行ってしまえば良かったなどという邪念もはじめこそで、次第に頭も心も空っぽになって、一歩、ひたすらこの一歩だけがすべてになる。  これを無心というのかどうか。こんな気持ちになったのは近年久しぶり、いや初めてのことかも知れぬ 。そのうち疲れを苦痛を意識することもなくなった。すると前へ運ぶ一歩が苦にならなくなる。相変らずその運びはゆったりとのろくても、確実に一歩は進んでいる。  これをどう例えれば良いのか。  
  ………………  
 
  辿り着いた青岸渡寺はすばらしかった。素晴らしいとは、建物の結構云々とかではない。心にまるごとすっきり入ってきた、とでも言うのだろうか。観察する目も疑う心もなく、素直に在るがものを在るままに受け入れていた。新鮮だった。やはり長く掌を合わせていたように思う。しかしそれは信仰とは違う。何宗でもない信心、自然の力や美しさに対する敬虔の念とでもいうもの、それが素直にあらわれたのだ。  
 
  恥ずかしながら、山を下りてから山のことの細部がうまく思い出せない。ただ耳孕に残る滝の轟音だけは今も新しい。

 

topページへ
2002〜2004 essayへ