折々の眼(13)  水墨画から“SUMIアート”ヘ  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 もしかしたら洋の東西を問わず、黒と白こそ、最後に選ばれる究極の色のなかの色なのではなかろうか。黒が光を吸収する色相であるのに対し、白は光を反射するもっとも明るい無彩 色である。黒と白はまったく対極の性格でありながら、根源を一つとする。黒が闇とすれば、白は光そのものだ。光は闇から生まれ、また闇へと還る。闇は生きようとする死であり、死のうとする生でもある。黒と白は互いに、人間の生と死に微妙に、あるいは深く関わっている。どんな画家でも、必ずといってよいほど黒と白に魅かれるのは、そうした理由からなのだろう。  
  黒と白の絵画といえば、まっ先に水墨画を挙げなければならない。中国では梁楷、牧谿、八大山人、揚州八怪のうちの金農、李貪、日本では雪舟、長谷川等伯、長澤蘆雪などが好きだ。かれらは不可視な時空を超え、私の胸に確固として存在する。しかし日々に増産される現在の日本の水墨画は、老練な指導者たちにより、時代離れした道徳心に近い精神性やナショナリティともいえる伝統性が強調されるあまり、どこか古くさいと思われて若者たちに敬遠されがちなのも認めざるを得ない。  
 
  漠然と水墨画といっても、墨画、墨絵、墨彩、南画などといった呼称が横行する。大小無数の流派や結社が乱立し、ジャンルとしての全体的統制感に欠ける。表現技法も、洋画ふう、やまと絵ふう、絵手紙ふう、墨象ふうといったように、何でもござれだ。あえて現状の水墨画を

定義すると水と墨と和紙の相互作用で創作する絵画ということになろうか。  
 
  それでよいのかもしれない。因習的な水墨画の呪縛からまず解放されることこそ、新しい大きな道への第一歩なのではないか。伝統的な水墨画には、どうしても固定概念やイメージがつきまとう。それが芸術性を深化進展しているのならよいが、はたしてそうだろうか。反対に水墨画のイメージを狭め、明日への可能性を自ら閉ざしているように思えてならない。  
 

  ならばいっそ、水墨画に替えて総称を墨画、いやもっとダイレクトに“SUMIアート”とでもしたらどうだろう。“チャイナ・インク”や“インディア・インク”より、今や“SUMI”という表記の方が、国際的に一般 化している。現状の水墨画を、SUMIを使ったアート全般と規定すれば、洋の東西に関わりなく、世界の老若男女が気軽に取り組めるようになるのではないか。  

  そうすればやがて “SUMIアート”は、アートジャンルの一つとして世界的に認知されるだろう。世界各地にマーケットができ、有力なビジネスとして成り立つ可能性もある。中心が東京になれば、なお嬉しい。従来の水墨画は、墨彩 、墨象などと共に“SUMIアート”のなかの主要ジャンルとして位置づけられることになるわけである。夢だろうか。

 

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