続・足裏庵日記(16)   ― 処女作 ―     中野 中 (美術評論家)


 作家は処女作に向かって成熟しながら永遠に回帰する、とは故亀井勝一郎の謂であったか。これは勿論、文学に対しての発言であるが、芸術の場合にも当てはまるであろう。   

 処女作をいずれの作品に措定するかはともかく、処女作にはその作家にとって永遠のテーマが包蔵されている、ということだろう。その永遠に向かって回帰する道程で、大概は矢尽き刀折れて野垂れ死にするというのが、およそ作家の名に値する者の一つの宿命だ、とさえ言っている。  

 が、大方は矢尽き刀折れんとするにまかせてデカダンに陥る愚を逃れ、その宿命を覚悟することで野垂れ死にを回避し、更なる一歩を踏み出す勇気をみずからに鼓吹し、涯の定かならぬ 荊棘の道を歩まねばならない。  そのために、作家は徹底して〈個〉になるしかあるまい。  

 ただ、個に徹して陥る問題に〈孤立化〉がある。それは同時に、前衛性と大衆性の問題ともつながってくる。例えば、それがすべてではないにしても、絵画団体、あるいは独立採算性をしいられる国公立の美術館がこぞって近年、とみに大衆化路線を打ち出してきているのは、大衆から遊離して孤立化することを危惧するからである。  

 しかし、孤立化は実は観客の多寡が問題なのではない。「一回性の出会」が観客に「一回性の生」の経験をどれだけ鮮烈に与え、表現の〈場〉として密度の濃い表現空間となるか否かであろう。作家は「一回性」でどんな観客とどんな〈場〉を共有できるのか。すべてはそれに尽きる。

 ところで、芸術と人生との乖離を主題に追求したトーマス・マンは、〈芸術家はアトリエでは狂人たれ、一歩アトリエを出たら良き市民たれ〉という意のことを言っている。  

 デーモンを抱えた表現者としての画家、一方で善良で良識的な社会人。いかにも自己欺瞞的な臭気はあるが、現実にはこうしたアンビバレンスを凌駕する精神的かつ肉体的な人間力が不可欠とされるのであろう。それでこそ、矛盾・葛藤を乗り超えて、しがらみや桎梏を克服して、己の標を打ち立てることが出来るのだ。

      *   *   

 美の使徒たらんと覚悟したそのときから、苦難の道は宿命となったはずだ。泥濘の終わりのない道程を紆余し曲折しながら、ときにわずかの光明に喜び、あるときは暗渠の闇の絶望の淵に沈み、誰に誉められることもなく、ないものねだりに終わらせないために、ただひたすら歩み続ける。  

 一本の線、滴らせた色、偶然に生まれた形。それらを手がかりに、描き切れないテーマを、つかみきれないイメージを、手を動かすことによって何とか象(かたち)ある世界へ導こうとする闘い。自分とは何ものか、生きるとは何か、いかに生きるのか。  悩み、とまどい、闘うところにのみ美は生まれる。         
        *   *  

 画家を目指して誰もが無心に技術の上達を目指す。  画家には誰もがなれるかも知れぬが、画家であり続けることは容易ではない。

 

topページへ
2002〜2004 essayへ