折々の眼(17)  美術は進化するか、しないか  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 最近、各方面で「進化」ということばを、やたらに耳にするようになった。そこでふと、気になった。「美術は進化するか、しないか」と。  

 結論から述べよう。それは、「進化」の意味をどのように解釈するかで答えが決まる。「進歩」と解釈すれば、答えは「進化しない」だろう。「進化」を「変化」や「変容」や「展開」と解釈すれば、答えは「進化する」となる。  

 ともすればわれわれは、一般的に「進化」を「進歩」と期待含みで前向きに考えがちだ。ところが正確には、「変化」や「変容」や「展開」の意にすぎないことが、いろいろな辞書に当たってわかった。したがって「進化」は、必ずしも「進歩」へ向かって「変化」や「変容」や「展開」するわけでない。逆に、「退歩」へ向かって「進化」することも十分あり得るわけである。  

 例えば人類の進化史を辿ってみれば、よくわかる。チンパンジーかオランウータンが直立歩行するようになり、道具を使って火を起こし、言語でコミュニケーションができる人間となった現在までは、確かに進歩へのプロセスを経たと思って差し支えない。しかしこの先、どうなるかわからない。科学技術の高度な発達による人造ロボットの大量 生産により、家事労働その他が必要なくなれば、人間の手足は、極端に退化してしまうだろう。そうなると、地球はロボット社会になる。人類は、地上から自然淘汰されないとも限らなくなる。人類の進化史とはいっても、所詮、退化という名の進化にすぎないといえるのではないか。

以上のことは、美術史についてもいえるだろう。美術の進化も歴史的に考察すると、洞窟壁画が盛んに描かれた旧石器時代から写 実主義の十九世紀中葉あたりまでは、厳密な対象再現へ向けての進歩のプロセスといえなくもない。それが十九世紀後半のカメラの普及と印象派の登場により、進化はもはや進歩などでなく、退歩へ展開する進化の過程となる。更にそれに拍車をかけたのが、マルセル・デュシャンの小便器の展示だ。美術表現は、具体物の対象表現からコンセプチュアルな傾向となることにより、コースは多様に細分化され、複雑化して、現在の芸術ジャンルの迷い子になったまま、途方にくれる結果 となっている。誰も手を差しのべてくれない。自分の道は、自分で探す以外ないのだ。

  数年前、私は某誌の「二十一世紀の美術はどうなるか」というアンケートに、次のように答えたことがある。  

 これまでの美術の概念がいっそう崩れ、美術ならざる美術の大いなる実験の場と化すだろう。つまりそれは、隣接する既成芸術分野から逸脱してしまった表現の孤児達の掃き溜めともいえるかもしれない。  

 美術の長い空白期がつづく。先が視えない。

 

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