続・足裏庵日記(19)   ― 姥 桜 ―     中野 中 (美術評論家)


 何度拭いてもおんなじ鏡曇りはこっちの胸にある                    尾藤三笠                  

 どどいつなのか川柳なのか、たまたま目にしたのだが、何とも人間心理の機微を押さえているではないか。三笠は明治38年神田生まれ。昭和30年没、とある。そして今ふと気がついたのだが、胸の字は凶の字を含んでいるのだ。  

 トルソーに春愁なくもなかりけり   阿波野青畝  

 トルソーは首や手足を欠く胴体だけの彫像で、私たちにはデッサンの勉強で親しみ深いが、一般 には洋装店などの陳列ディスプレイで馴染み深いと思う。元来が石膏やプラスチック製品だから本来、春愁を湧き立たせるとは考えられない。そうした常識的な固定観念をこの句はみごとにくつがえしてみせる。ここには俳句のもつ初源的生命力が豊かにある。  

  「書くことは治療法のひとつの形である。書いたり作曲したり描いたりしない人々は、すべてどうやって(孤独からくる)狂気やうつ病や人間に固有のいわれのない恐怖からうまく逃れているのかと、私はときどき不思議に思う」                  グレアム・グリーン  

  孤独は誰もが体験し、時に苛(さいな)まれたりするものだが、この定義はむずかしい。  社会学者などによると、孤独とはひとつに他者とのコミュニケーションの欠如であったり、愛情や尊重される意識の欠如に対する反応である、とする。がそれに対して、孤独とは絶対的な〈存在〉であるとする哲学者もいる。

 春雨や人住みて煙壁を洩る       与謝蕪村  

  これには前書きがあって「西の京にばけもの栖みて久しく荒れ果てたる家ありけり今は其さた(お化けの話)なくて」とある。昔の話はともあれ、今は人も住みついて、壁の隙間からは煙が洩れてくる、というのだ。  
  これを孤独とみるか、温もりを感じるかで、あなたの孤独度が計られる。  

  私たちがリンゴと名付けることができるのは、リンゴのあらゆる性質を備えた抽象的概念を頭の中に持っているからで、それをプラトンはイデアと言った。一方、アリストテレスはその逆で、具体的なリンゴは酸っぱかったり甘かったりする個々のものだ、と言っている。  つまり、実在(リアリティ)というのは常に二つあって、具体的な事物が実在するというアリストテレス型の考えと、抽象的概念こそが実在だとするプラトン型の考えだ。  実在というものは時代により、人により、社会により変るんだと思えば気が楽なのか、むしろむずかしくなるのか。  

  姥桜は、悪口のように言うが、実は最高のほめ言葉なのだ。年とって皺くちゃな幹のわずかに残った枝に咲く花。その花が色気から色香に変る。色気は年寄りでも出るけど、色香にまではなかなか出ない。その前に朽ち果 ててしまうのだ。誰にでもなれるものではない。

 

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