続・足裏庵日記(20)   ― 天才の原石 ―     中野 中 (美術評論家)


 テレビ出演の関わりで、このところ毎週、小さな子供たちの絵をたくさん見る機会をいただいている。幼稚園児から小学生までの、毎週全国から応募されてくる作品の中から〈天才の原石〉を探し出すというのが私の仕事で、番組中では私は〈天才発掘人〉と呼ばれて図に乗っている。  

 発掘された〈天才の原石〉の子供の家へディレクターが訪ねて、お題によって新たにもう1点描いてもらい、その作品をスタジオで公開し、〈天才美術館〉に登録収蔵するというのが番組の内容である。  

 子供の絵を観るのは実に楽しい。一点々々じっくりゆっくり見ていると、喜々として夢中になっている子供たちの顔が見えてくるようだ。どれもこれも本当に良く描けていて、本当に驚くばかりだ。何でそんなに素晴らしいのだろう。私なりに整理してみると以下のようになろうか。  まず、感性の瑞々しさである。ヴィヴィッドで生き生きした感受性が何とも柔軟ですばらしい。  

 二つに、発想が自由で、しかも豊かな想像力の持主ばかりである。何にでも旺盛な関心を示し、深い興味を抱き、その上何にも拘束されないイメージの飛翔力を持っている。それが大人には思いもよらない夢の形となって現われる。  三つに、絵を描くことが大好きで、理屈ぬきに純心に情熱をもって描く。描きたいものを、描きたいことを誰に遠慮もなく、描きたいように描きたいだけ描く。その情熱が迸っている。  

 そのことに私たち大人は感動しビックリする。

 もちろん子供の絵であるからには技術はどれほどのことはない。いかにうまいといってもタカが知れている。うまい、へたよりも、その純心にやはり強くうたれるのだ。ここにこそ、絵の、絵を描く原点があるのではなかろうか。  

 人は誰でも豊かな感性や自由な心を持って生まれてきた。それが長ずるにつれて知識を身につけ理を覚え受験戦争に疲れ、社会の波にもまれ世間知をまとううちに、持って生まれた稟質をどこかに置き忘れてきてしまっている。  大人になっても、その心をいつまでも持ち続けている人が、絵や音楽などの芸術、いやそればかりでなく科学の世界でも天才となり得るのだろう。  

 では、私たち大人はどうしたら良いのだろうか。いまひとたび、子供心に帰るしかない。描くことに夢中になって、損得を忘却して素直にキャンバスに向かう、そう務めることで子供の心を取り戻すべくアグリカルチャーするしかない。その上で、みずからの人生が刻みつけてきた年輪という豊饒を加味することだ。  技術は繰り返し訓練することで手に入れることが出来る。厄介なのは心のありようである。  

 毎週、廃校になった学校の体育館や廊下や教室に貼り出されたたくさんの絵。仕事を忘れて見入っている自分に気が付いたりしている。還暦を過ぎてこんな楽しい仕事にめぐり会える僥倖に感謝したいほどだ。いま私は毎週子供たちから元気をもらっている。ではない。

 

topページへ
2002〜2005 essayへ