折々の眼(20)  活路は抽象画系水墨にあり  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

日本の水墨画界は現在、一見、活況を呈しているように思われる。しかし実際には、少子高齢化の進行に伴って、全体が老人クラブ的様相を際立たせていることも否めない。どの団体も、若年層の開拓に躍起となっているのも、無理からぬ ことだろう。  

  評論家としての私は、新人作家の発掘と物故作家の再評価、それに展示構成の請負いを三本柱として仕事している。もっとも力を入れているのが、いうまでもなく新人作家の発掘だ。銀座を中心に、若年層の個展をできるだけ観るように心掛けている。また、約十年近く或る美術大学へ非常勤で出講している関係で、作家の卵たちと接する機会が多い。  
  これまで作家の卵たちが個展を開くのは、大学を卒業し、一人前になってからというのが相場だった。ところが昨今、まったく様変わりしている。在学中の二、三年生で、初個展を体験するケースが多くなった。親の懐具合を当てにすると同時に、卒業後の進路を考える手掛かりにしようというのが、動機のほとんどだろう。彼らの個展の作品傾向の一つとして挙げられるのは、画材としての墨を取り入れたものが比較的多く観かけること。それなら彼らは水墨画が好きかというと、必ずしもそうでないようだ。水墨画は古くさい、年寄りじみていると笑って腰を引く。画材としての墨の造形的可能性の方に、どうも惹かれるらしい。

 ではどうすれば、水墨画イコール古くさいという図式を払拭できるのか。水墨画の永い歴史性と伝統性、深い精神性を説く以前に、まず画材としての墨の造形的可能性、いわゆる水と墨と紙と筆の相互作用によるデリケートな有機的現象、つまり濃淡のグラデーション、にじみ、ぼかしなどの神秘的変化の面 白さを強調する必要があるのではなかろうか。

 そもそも画材としての墨の造形的可能性は、水と墨と紙と筆との相互作用による抽象性にこそあるように思われてならない。本質的には写 生的、写実的具象画系より、写意的抽象画系に適しているのではないか。これからの団体は、写 生画や写実画一辺倒でなく、線描だけにこだわらないで、面的抽象性を重視する抽象画系部門にも力を注ぐべきなのかもしれない。  

  中国の或る美術評論家がいつだったか、現代の水墨画を三種に分けて話題になったことがあるそうだ。筆墨精神を堅持する「純種水墨」、東洋と西洋の合一を唱える「雑種水墨」、そして実験中の「異種水墨」である。そうした分類に従えば、私が注目するタイプは「異種水墨」ということになろうか。  

  更に水墨画界そのものを変革するには、できるだけ雅号(筆名)を排し、本名で活動すべきだろう。書道、華道、茶道といった芸事の世界同様、雅号は、水墨画社会の精神的特殊性を強調している。それがかえって、墨の愛好者たちを近寄りがたくさせる遠因となっているのではなかろうか。

 

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