続・足裏庵日記(22)   ― 顔って何だ ―  中野 中 (美術評論家)


 2000年の正月に企画を立て、翌01年からスタートした『新世紀の顔・貌・KAO―30人の自画像』展が、当初の予定通 り5年間毎年開催し、この6月最終の巡回展を終えて、どうやら無事大団円となった。以来3か月、事後処理などが済んでようやくホッとしている。  

  ふりかえってみると、延べ147名の参加をいただいた、洋画・日本画・水墨画・版画・彫刻の147つの自画像に出会えたわけである。当初は4か所の巡回(新宿・金沢・高知・銀座)で始まったこの企画展が、回を追うごとに会場が増え、第5回展では8か所(1回展プラス、京都・平塚・北海道・名古屋)にまで広がった。延べ何人の方々が観て下さったのか、相当数に上ったと思われるが累計数字は出ていない。それにしてもあらためて書き下ろしの新作を描いて下さった作家の方々、会場提供のみならず全面 的に協力して下さった画廊さんに感謝である。  

  企画立案当初、自分の立場上、展覧会そのものが批評活動、評論行為にしたいとした考えが多くの方々に理解していただけたことも嬉しかった。それはとにもかくにも、テーマが〈自画像〉だったからに他ならない。  
  

  自画像というテーマは、自己探求、内面追求の自省を強いるだけに、作家にとって永遠の課題なのだ。だから多くの方々が自発的・意欲的に挑戦して下さったが、これが意外と難題であったというのが正直なところだろう。

 ヨーロッパではデューラー(キリストに模した『自画像』はちょうど1500年の制作)をもってその嚆矢とするが、日本では近代それも西洋から自我意識が導入された明治以降のことであって伝統がない。また画学生時代に描いても繰り返し描く画家は稀に過ぎない。従って、技術以前に自画像というものの考え方にまず頓挫してしまう。  

 自分の作品はみな自画像です、といつもと変らぬ作品もあった。ふだん抽象や表現主義的傾向の作家が写 実に取り組んできた。人物などふだんの作品には少しも描かない人も自分の顔に挑戦してきた。そのどれもが作家の自我あるいは自画像への向き合い方が見えて十分に興趣深かった。  

 作品は各地の各会場で、風土・環境はもちろんそれぞれ採光も展示方法も違う。私は5年間全会場へ足を運んだが、例えば第4・5回展のように半年の間に同じ作品を8回見ることになる。と後半になり、最後の会場になると、最初の印象とずいぶん違ってくる作品がある。  

 ただ、繰り返し見ても、自画像には見飽きてくるとか退屈さを覚えるということは少しもなかった。何が違うかと言えば、同じ大きさの作品が、その存在感に差異が生まれてきたことだ。簡単に言えば、見るほどに内的なものが尽きず見えてくる作品と、失礼乍ら痩せてくる作品とが、なのだ。これは技術的な問題や手法の違いではなく、作家の意識の範疇に属することだろう。己れと向かい合うスタンス、そこにこそ命は宿ることになるらしい。

 

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