続・足裏庵日記(23)   ― 顔って何だ ―  中野 中 (美術評論家)


 美術評論家のa階秀爾大原美術館館長や日本画家・平山郁夫東京芸術大学学長ら文化人が、国立の美術館・博物館などの統合案や市場化テスト適用をめぐり、「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」などの意見書を11月3日に文部科学省(以下、文科省と略す)に提出していたが、政府の規制改革・民間開放推進会議は「真に国民のためというなら、胸を張って市場化テストに参加せよ」と同15日に反論を送った、と同17日付朝日新聞がベタ記事で報じている。   

 こうした美術関連記事は所詮ベタか、とひがむわけではないが、お金が直接からむオークションなどは大々的に報じられたりする。事の本質についてはまったくの無視である。  

 いずれ、官から民へ、民で出来るものは民へ、の小泉政権の方針によるのだが、この記事だけではことの経緯の詳細はわからない。  

 それにしても近年の文科省の施策には納得しかねることが多い。近年のみか旧文部省時代から教育方針ひとつとっても一貫性がなく、したがって理念も信念もなく折々の思いつきで、現場の教師や生徒を振り回しているばかりだ。  

 「不平等社会」であり、「格差社会」だと言われ始めたのは、小泉政権誕生前後の2000年頃だ。それから5年。「中流崩壊」「勝ち組、負け組」の二極化は定着し、いま『下流社会』(三浦展著)という本がベストセラーになっている。加速度的なこうした状況はヒステリックにさえ見えてくる。それは現総理の独善的な強引性と軌を一にしている。そんな総理を支持する国民は衆愚であると言われても仕方あるまい。

 近年、国公立館が独立法人制になって、企画展等の催事が観客動員(採算優先)を第一義に考える傾向に危惧を覚えた東京都現代美術館の学芸員某氏が批判的意見を繰り返したことが因(表向きは別 だが)で、明らかな左遷人事を受けたことはよく知られた事実だ。  
  いまの政府は、何が必要で何を切り詰めるべきか、十分な審議も検討もされないまま、お荷物はどんどん切り捨てていく方針とみえる。国として採算ベースを価値判断の基準としているとしか思えない。百年の計どころか十年、いや五年の計さえもない。ましてアートは経済でのみ計れるものではあるまい。  

 たとえば、人気画家といわれる画家たちがいる。人気の尺度は一般的には巷間に良く知られている画家であり、良く売れる、それも高く売れる画家ほど人気も高い。が果 してその画家の作品は真にアートといえるのか、芸術性は如何なのか。両者を兼ね備える例は希少なのが現実であろう。  

 アートは経済で計れるものではない。広く文化といっても同じである。文化大国などと歯の浮く科白でだまされ、勝手放題の国の政策にまかせていたら、我が国の文化フィールドは荒野となりはて、再生の芽さえ不可能な土壌となっているだろう。その前に立ち上がってキャンペーンを展開する紙誌はないものか。

 

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