続・足裏庵日記(24)   ― 1962年  ―  中野 中 (美術評論家)


 季刊雑誌『考える人』(新潮社)が「1962年に帰る」という特集を組んでいる。―1962年すなわち昭和37年は、60年安保と、東京オリンピックの64年の谷間で佇むような、特筆大書されることのない1年だったかもしれません。しかし子細に目を凝らしてみると、この1年の日本および日本人には、何とも言えない初々しさ、凛々しさが漂っていたのではないかと思えてしかたがないのです。デザイン、雑誌、映画、広告、小説、テレビ、歌謡曲……垣間見える文化状況には、私たちが失ってしまったものがまだ光り輝いていた、と考える特集。―です。  

  この年、私は高校を卒業して上京、私大に入学した。杉並区の京王沿線に下宿、3畳一間2食付きでひと月5千円。初のひとり住まいだったがホームシックには陥らなかった。石けんカタカタ鳴らせての銭湯通 いは「神田川」そのままだが、多くの人が車で来ているのには驚いた。車を持つ金はあっても内湯はない、東京の土地事情を知る象徴的風景に思えた。  

  大学の大部屋でマイクを使っての講義には即失望、もっぱら部室に顔を出してメンツの集ったところで雀荘行き。あとは喫茶店で時間潰しという体たらく。仕送りしてくれる親には聞かせられない話だ。  この年、三島由紀夫は『美しい星』、北杜夫は『楡家の人々』、安部公房は『砂の女』を発表、これら新刊をはじめ乱読。高校時代の欧米文学から純文学に一転。N響ボイコット運動で小澤征爾の名を知り演奏会に出かけたり、田舎では不可能だった歌舞伎や能などにも年間数回は通 った。文化に飢(かつ)えていた少年は東京砂漠で文化に惑溺しようとしていた一面 もあった。

 東京は世界初の一千万都市になり、2年後の東京オリンピックに向けて解体と建設の塵埃と騒音の坩堝と化し、建設中の銀座交叉点の三愛ビルの地価が坪420万円に高騰して話題になった。今や当たり前のタレント議員の第1号藤原あきが全国トップ当選したのが7月、街には植木等の「スーダラ節」が流れ、8月には堀江謙一が世界初のヨットによる単独太平洋横断の快挙、富士ゼロックスが国産初の電子複写 機を完成、コピー時代の幕開けとなり、秋にはキューバ危機で米ソ核戦争か、で少々緊張したりした。  

  私はといえば兄の尻馬にのって琉球旅行、佐藤栄作総裁のパスポートが必要だった。電車はなくバスが土埃りをあげてタクシーを追い抜き、基地の写 真を撮ってフィルムを取りあげられたりもした。  

  YMCAに所属して、それはボランティア活動ではなく新・旧聖書完読が目的。東京生活の唯一の潤いであった彼女にふられノイローゼ脱却のために読んだのが講談社刊『古典落語全集』全5巻。最寄り駅前の学割・早朝割引100円2本立てで勝信太郎の「座頭市」と市川雷蔵の「眠狂四郎」は欠かさず、国産初のピンク映画「肉体の市場」(小林悟監督)や新人・若松孝二に血道をあげた。  

  まだ私に美術の美も萠え初めてはいなかった。

 

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