続・足裏庵日記(25)   ― ギャラリートーク ―  中野 中 (美術評論家)


 近年、ギャラリートークが目立って多くなった。これもひとつの流行だろうか。公募団体展やグループで展示された作品を前に評論家などが批評する、あるいは美術館の企画展で学芸員が、あるいは個展で自作解説的なことを作家自身がする行為である。講演会などと違って、目の前に作品がある、時に作家自身と意見交換をしながら話をする、あるいは話が出来る、その臨場感が最大の魅力だろう。まわりに集う聴衆は、次は自分の番だ、この評論家はどんな見方をし、どんな批評をするのだろう、と固唾をのんで見守り、聴き入っている。作品評をする側にも緊張を強いられる仕事だ。  
 
  私も何度か体験して、いくらか場数を踏んではきたが、決して馴れることもなく、常に一本勝負のような緊張感が強いられる。  そのもっとも大きな要因は、ほとんどの場合作品が初対面であり、作者も初対面 、これまでどんな作品を描いてきたのかも知らなければ、作者の画歴も絵画観も人柄もまったく知らない。いわば場当たりなのだ。そのことが辛いし、逆にそれだから面 白いのだが、当事者にとっては汗のかわく間のない所業となる。  

  私のギャラリートークの心懸けとしては、できるだけ平易に、つまりわかりやすく、作品に即して具体的に指摘することにしている。それは評論の執筆においてもそうだが、抽象論や一般 論ですませてしまえば危険性は少ない。見当はずれになって恥をかく惧れは回
避できる。しかし、それでは先方にとっては多分隔靴

掻痒の思いは免れないし、何がしかのギャラをいただく立場としては消化不良に陥る。欲張りで、身のほど知らずといわれようが、さわやかな汗をかきたいのだ。  

 そんな私のギャラリートークは、何よりも作者自身のモティベイションを大事にする。どんな意図を何を表現したかったのか。もちろん技術的なうまいへたはすぐ目に入るが、絵の具の扱い方やデッサンをはじめ基本的な技術についてはあまり触れないことにしている。そういう事はその画家の先生なり先輩なりが日頃重点的に指導しているはずであり、また私よりそういう方々のほうがはるかに熟知しているに違いないからだ。  
 
  私が強調するのは対象に引きずられるな、あくまで主観を、制作意図を表現するための対象なのだということ。単に写 実、つまり対象をそのまま写す技術は大切だが、それだけでは作品にならないんだということ。対象をかりて自分の思いを入れなさいということ。これがむずかしい。むずかしいが最小限必要なこと。  次にいろいろあるが、バランスということ。構成においても色調においてもバランス(調和)はもっとも肝心なこと。しかし完全なバランスはあり得ないし、もしそうなったら面 白くもおかしくもない。バランスを求めながら悪戦苦闘する、そのことが大事。またバランスをこわす一本の線、色をみつけること。それによって静中動が生まれて、絵はいっきに息づいて魅力的になるのではなかろうか。

 

topページへ
2002〜2006 essayへ