折々の眼(25)  
あれから一年、さようなら田中穣さん 
ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 昨年の4月25日、田中穣が胃がんで急逝した。80歳である。  
  両手の指の数をはるかに越える著書をもつ穣さんは、新聞記者出身で、美術評論家の大先輩である。しかし私にとって彼は、田中先生でも、田中さんでもない。同じ目線で、何でも腹蔵なく語り合える穣さんだった。  穣さんの『現代画人伝』第一巻(読売新聞社刊)が上梓されたのが、1984年。当時の「三彩 」で、私も書評した。好評で翌年、第二巻が続刊される。問題は、その「あとがき」だ。そこに彼は、第一巻の私の書評に示唆を受けたと平気で記す。大切な著書の「あとがき」に若輩の拙文を臆せず引用するなんて、半ばあきれ、半ば感動した。なんと率直な感激屋さんだろうと、真から驚いた。だいぶ経って、「一枚の繪」には、私を在野で一番の若手評論家とまで持ち上げ、赤面 させられもした。のちに中国各地の美術関係者と交歓する美術評論家連盟の代表団に一緒に選ばれ、全行程を共にすることで、更に親密度が加わった。  

  もしも世に大の“葬儀嫌い”が存在するとすれば、私など人後に落ちない部類に入るだろう。葬儀と聴くだけで、キリキリと胃が痛む。生前にあれほど気にかけていただいた田中穣さんの時でさえ、弔電を打つだけで自宅に籠ってしまった。恩義知らずの薄情な私である。それにもかかわらず今年に入ってから、没後出版の穣さん最 

後の著書『生きる 描く愛する』(婦人之友社刊、1800円)の評伝対象となる四十二名の日本 の近・現代画家の略歴原稿の執筆と、電話で恵子夫人に依頼された。うしろめたさがつづいていただけに、正直、嬉しかった。  
  小倉遊亀の閑かで爽やかな日本画作品「径」が表紙を飾る『生きる 描く 愛する』は、内容、造本、レイアウトなど、何もかもが理にかない、さっぱりして好ましい。穣さんに対する編集スタッフの友愛の念が、おのずとこういう形に結晶させたのかもしれない。この単行本が単なる追悼出版でなく、明日へ向って現在を生きる読者心理に充分に配慮し、制作されたように思われてならない。隅々にまで、細かい神経が通 っている。  

  『生きる 描く 愛する』でなく、「生きた、書いた、恋した」。これはいうまでもなく、十九世紀フランスの小説家スタンダールの墓碑銘の部分である。穣さんは、この碑文が好きだった。もしも死んだらこれにあやかり、僕は「生きた、書いた、愛した」にしたいね、といつもの笑顔でいった。「恋した」を「愛した」に替えるところが、いかにも彼らしい。広がりと奥行きと或る種の普遍性を、人間の生涯に仮託したかったのではないだろうか。確かに田中穣は、「生きた、書いた、愛した」一生だった。それを支えたのが、歌人でもある恵子夫人である。

 

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