折々の眼(28)  
公募団体の“展示元年”へ向けて 
ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 またおまえのオハコの展示構成についてか、なんていわないでほしい。六本木の新国立美術館開館年が刻々と迫っている。上野の東京都美術館から移転する公募団体も、新規に参入するグループも、今その準備におおわらわである。とりわけ、どこもみな展示構成をどうするかが火急の課題となっている。  

  来期から借室する或る水墨画団体の主宰者に誘われ、重い腰を上げて新国立美術館を初めて見学して、もう二、三カ月経つだろうか。前面 を覆うガラスカーテンウォールが、波のようなカーブを描く外観を遙かに眺めながら、館内へと進んだ。ルームナンバーが大きく記された画一的な展示室の入口が、各階の片側にズラリと並ぶ。まるで高級マンションか、貸倉庫の廊下を歩くような気分だ。きわめて機能的だが、味も、素っ気もまるでない。さっそくその一つの展示室へ足を踏み入れると、さすがに1,000平方メートルだけのことがある。とにかく、広い。天井も高い。いったい各団体は、これだけのスペースに、どのような展示構成で対処しようとしているのだろうか。
 
 仄聞するところによると、公募団体のなかには、ワイド化したスペースを作品で埋めるために、一般 の入選数を増やしたところもあるらしい。もし事実なら、まことに嘆かわしい。真っ新な壁面 の美しさを活かそうとするどころか、できるだけ作品で埋め尽くして経営面に反映させようというわけだ。何のために、わざわざ上野から六本木

へ移るのか。これでは、大義名分も、何もあったものじゃない。古典的ないわゆる″額縁絵画″のレベルに頑固に留まろうとするならともかく、額縁という窮屈な枠組から飛び出し、展示空間との関わりのなかに、新たな表現意義を見出そうとする現代絵画の大きな流れに、まったく逆行するのではないか。これまでの平面 作品には、空間が一つあればよかった。最終的に額縁に囲われる画面空間である。しかし、できるだけ薄い仮縁を使おうとしたり、額縁から解放されようとする現代絵画ともなると、従来の画面 空間のほかにもう一つ、新たな空間が意識されなければならない。展示空間である。画面 空間と展示空間の相関関係を考えながら、作品は展示構成されなければならないのだ。もはや壁は、作品で覆い隠すための単なるモノとしての壁であってはならない。画面 空間の延面線上に広がる不可視な想像空間であり、余情や余白としての有機的な意味をもつ。作品と作品を単純に等間隔に展示すればよい、というわけにはいかないのだ。一点一点、厳しく作品解釈することによって、作品と作品との間隔も決定しなければならない。  

  これまでの展示はどうだったのか。常連客から観れば、個々の団体の作品に通 底する画質の性格や技量のレベルの見分けがついても、一般客にとっては、まるで大同小異だったのではないか。展示構成にまったく創造性がなかったからである。

 

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