続・足裏庵日記(32)   ― 全 的 没 入 ―  中野 中 (美術評論家)


 ―およそ芸ごとには、その芸に生きる以外に手のない人間というものがあるものだ。碁将棋などは十四五で初段になる、特別 天分を要するものだから、その道では天来の才能に恵まれているが、ほかのことをやらせると小学校の子供よりも役に立たない。まるで白痴のような人があったりする。しかしこういう特殊な畸形児はせいぜい四五段ぐらいでとまるようで、名人上手となるほどの人は他の道についても凡庸ならぬ 一家の識見があるようである。(中略)
 
  もともと芸、芸術というものは日常茶飯の平常心ではできないもので、私は先日将棋の名人戦、その最終戦を見物したが、そのとき塚田八段が第一手に十四分考えた。それで観戦の土居八段に、第一手ぐらい前夜案をねってくるわけに行かないのかと尋ねたところが、前夜考えてきても盤面 へ対坐するとまた気持ちが変わる、(中略)

 また考えが変わって別の手をさす、そういうものだという。(中略)気持ちが変わるというのは、つまり前夜考える、前夜の考えというのが実は我々の平常心によって考察されておるのだが、原稿に向かうと、平常心の低さでは我慢ができない。全的に没入する、そういう境地が要求される、創作活動というものはそういうもので、予定のプラン通 りに行くものなら、これは創作活動ではなくて、細工物の製造で、よくできた細工はつくれても芸術という創造は行なわれない。芸術の創造は常にプランをはみだすところから始まる。予定のプランというものはその作家の既成の個性に属し、

既成の力量に属しているのだが、芸術は常に自我の創造発見で、既成のプランをはみだし予測し得ざりしものの創造発見に至らなければ自ら充たしあたわぬ 性質のものだ。(坂口安吾「オモチャ箱」より―) 
  長々と引用して誠に恐縮である。でも日頃私が考えていることがここに凝縮しているのだ。坂口は作家だから作家の立場としての弁だが、私にも画家にも当てはまるであろう。  
 
  近年、とくに美校出の若手の作品に、実に技術的にすぐれた仕事を多く見かける。それはキレイで口(目)当たりは良いので、一般 の人にもわかりやすく歓迎される。  
  しかし見慣れた人の目には深みが感じられず良く描いているな、で終わってしまう程度だ。  うまいということ、対象をしっかり再現する技術があるということは大事であり素晴らしいことだ。しかし彼らの絵には発想の豊かさや深さがもの足りない。安吾の言葉を借りれば、予定のプラン通 りに描かれたもので既成の力量、つまり水準でしかないということになる。  
  これも安吾を借りれば、芸術は常に自我の創造発見で、既成のプランをはみだし予測し得ざりしものの創造発見に至らなければ、自ら充たしあたわぬ ものである。プランの枠を破り、個性を超越して暴発しようとするときに、手に備わった技術が出番となるのだ。  全的没入、むずかしいことだが、ここからしか新しい発見、創造が生まれはしないのだ。

 

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