折々の眼(32)  「創意乏しい壁面 展示、台座で一変の彫刻」 
ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 期待と不安がさまざまに渦巻くなか、六本木の国立新美術館がオープンし、早や半年近く経とうとしている。私も館主催の企画展はじめ、各公募団体展を足早や巡観している。何事にも初物好きなミーハー的国民性に加え、いくらか誇大宣伝気味の企画展がつづく相乗効果 も手伝い、各展会場は連日、それなりに賑わっているように思われる。とはいえ冷静な客観的評価をくだせるようになるのは、初年度でなく、むしろ明年以降になるだろう。  

  JR中央線のお茶ノ水駅で地下鉄の千代田線に乗り換え、乃木坂駅からダイレクトに新美術館へ入館するのが、私のいつものコースだ。その間、例の波打つガラスの外壁越しに樹々の若葉を一瞥することがあっても、周辺全体の環境がどうなっているのか、さっぱり見当がつかない。そこで一度、美術館の正門から六本木方向へ歩いてみることにした。まったく散文的で味気ない。美術館はやっぱり、上野の東京都美術館のように、公園のなかに位 置する方が納まりつき、気分が落ち着く。感覚的に少なからぬ刺激を得る展観行為の前後くらい、ゆったりした安らぎに包まれてもよいのではなかろうか。  

  概観して各展に共通するのが、高く広い壁面を必ずしも活かしきれていない点だろう。壁面 は、ただ単に作品で満たせばよいというものではない。作品をよりよく観せるためにもある。個々の作品を観せると同時に、どのような展示が具体的になされているか、展覧会そのものを観せるために

あるのだ。そのことを明確にしっかり認識し ている団体が、いったいどれほどあるだろうか。その点「国展」は、画面 の大小を問わず中心線揃えを展示の基本としていて、眼に快った。観る視線は、無意識のうちに画面 の中心にまず投げかけられ、無意識のうちに画面の中心にまず投げかけられ、それから四方へ広がって行く。したがって、互いに展示される画 面の中心線が上下にブレないことが鉄則だろう。下揃えなど、もってのほかだ。すべて等間隔に並べるのも、あまりに凡庸すぎる。同一作家作品の場合、互いに間隔を狭めて寄せ合うことにより、次の作家作品との間隔を広くして区別 化を図る必要がある。つまり作品別でなく、作家別に展示する方が全体にメリハリが効き、美しく観える。  

  今回の上野から六本木への移転組で、もっともメリットを得るのが、立体作家をも含む彫刻 作家たちだろう。 東京都美術館のあの台座(彫刻台)代わりのコンクリート・ブロックは、何とも醜悪で無粋すぎる。なぜこれまで、あれを館備えつけの台座として使用することに、良質な作家が抵抗しなかったのか理解に苦しむ。彫刻は、本体だけでない。台座も含めて、作品と考えなければならないのだ。もし本体しか眼に入らない作家や観客がいるとしたら、まったく全体の空間性を把握していないといわざるを得ない。幸いこの課題は、六本木でクリアされた。壁面 とマッチする白いステンレス製の台座が備品として用意されることで、彫刻作品が展示映えするようになった。

 

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