続・足裏庵日記(39)  ― 対  決 ―  中野 中 (美術評論家)


 ことしも高校野球夏の陣がやってきた。それに加えて北京五輪が重なる。個人的には政治的動きが見え過ぎて今一つ盛り上がりに欠けるが、当の選手にとっては必死懸命、暑さもものかわ精一杯のプレーとなる。酷暑の夏はとりわけヒートアップすることになる。  

 一方、静かな対決もある。東京国立博物館の「対決―巨匠たちの日本美術」展で、現在の美術誌では世界最古という。『國華』の創刊120年にちなむ特別 展。ただ〈対決〉の冠にはキワドサもあるが、2作家ずつ代表作を対比させる展示法はユニークな視点であり、また日本美術の豊かさを実感できる充実した内容であることは間違いない。展示替えも含めてであるが、国宝・重文約50点が含まれているのが嬉しい。  

 例えば、国宝の狩野永徳「檜図屏風」VS同じく国宝の長谷川等伯「松林図屏風」がその間2メートルもなく並んでいる。  この二人には良く知られた逸話がある。当時の公家の日記によれば、1590(天正18)年の夏のことだという。  

 後陽成天皇の御所の造営に当たり、いくつかの建物の障壁画制作を請け負ったのが狩野永徳。もちろん一世一代の機会とばかり、一門の絵師たちを指揮し、みずからも腕をふるっていた。  

 ところがその建物群の一つ、寝殿の付属施設「対屋」に割り込みを策す絵師があらわれる。激怒した永徳は、親しくしていた公家の有力者に手を回し、結局はその「はせ川と申す者」を外させてしまった。  

 

 室伏哲郎著『ライバル日本美術史』(創元社)に、「永徳は、等伯のなみなみならぬ 野心、タフな行動力、強力なネットワークに度胆を抜かれたことだろう」とある。まさに好敵手(ライバル)現る、である。

 公家日記は更に続けて、永徳と弟たちは、公家のもとに贈答用の酒樽を持参したり、等伯排除に成功すると、再びお礼に訪れたり、とリアルな描写 が続く。ところが1ヶ月後に永徳は急逝する。過労に心労が重なったのだろう。享年48才だった。しかし以降300年御用絵師として狩野派の栄華を決定づけたのではあった。  

 永徳の金地に極彩色に対し、等伯の涙ににじんだような水墨の松林は、頼りであった千利休と、息子を亡くした(狩野派の陰謀説も有る)時期に重なる。  純粋に作品と対峙すれば良いのだが、こうした付録も鑑賞を楽しむ背景とはなろうか。  

 こうした血みどろの「対決」ばかりでなく、俵屋宗達に私淑した尾形光琳、円山応挙に師事した長沢芦雪、奇想・異相の振幅を示したような伊藤若冲と曽我蕭白、異色の木彫仏の系譜上に並ぶ円空と木喰、最も新しいところで富岡鉄斎と横山大観、等多様な対決は、組み合わせの妙がとにかく楽しませてくれる。やはり時代を越えて作品そのものの力が今に伝わってくるからだろう。  

 館外の白日の下に出たとたん、汗が噴き出した。戦後の「対決」展はどんな組み合わせが生まれるのだろうか。

 

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