折々の眼(40)  冥利に尽きる一人審査 「高知県展」  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 縁があってこの秋、「第六二回高知県美術展覧会」洋画部門の審査員を委嘱された。以前からぜひとも経験したかった県展の一つなので、無条件に嬉しかった。なぜ、それほどまでに経験したかったのか。各部門のなかでも、特に〈洋画〉〈日本画〉〈写 真〉の審査員がたった一人と聴いていたからである。どんなに責任が重かろうが、どんなに体力的に消耗しようが、審査冥利に尽きると考えていた。  

 機上の人となれば、高知市には約一時間ちょっと。だが私は六時間以上もかけ、新幹線から在来線へ乗り継ぎ、瀬戸大橋を初めて渡った。国外へは海を泳いで渡れないから、覚悟して飛行機に身を預けるしかない。国内の旅なら、地上をどこへでも走れる。何を隠そう、要するに私は飛行機嫌いなのである。

 美術界に長く留まっていると、コンクール展や公募団体展の審査に関わる機会がふえる。そのたびに、緊張を強いられる。終わったあと、こんな結果 でよかったのか反省しきり、疲れがどっと出る。それもみな、従来型の複数審査員制に起因する。例えば審査員長的存在を軸として、暗黙のうちに、年功序列的発言力学が微妙に機能する。徹底協議などは建前。現実には相互歩み寄りというか、妥協的審査に落ち着くことが多い。どだい傑出した作品など、良いか悪いかのどちらかで、中途半端な判断を許容しない性格がある。そういう作品は、敬遠されがちだ。どちらかというと、無難な作品が推されるケースが多い。複数審査員制のプラスであり、マイナスでもあろうか。単独審査員制の場合、結果 のすべてに審査員の見識と独自性がダイレクトに反映され、責任の所在が厳しく問われる。ガラス張りの透明な審査とは、こういうものだろう。さすがは坂本龍馬の高知、自由民権運動の拠点にふさわしい審査法ではないか。

 

 さて、ことしの「高知県展」の洋画部門だが、搬入五三四点。めでたく昨年を上回った。そのなかから入選初め、特選三点、山脇賞一点、新人賞一点、褒状一五点を、二日がかりで全部、私一人が選んだ。五三四点中で圧巻だったのが、何といっても山脇賞の杉本望「顔」。左の掌を顔に見立てた胸像を精緻に描いた傑作である。作者は、まだ地元の高校生というのだから、あっと驚く。描写 力の迫真性もさることながら、発想が素晴しい。掌はいったい、何のメタファーなのか。社会の加速度的進展に待ったをかけようとでもしているのか。悩める高校生の屈折的表現 なのか。特選の池本充明「蝕」、 曽我部巧「ガウディのトカゲ」、市川眞咲「イキル」は、それぞれが固有の力量 を十分に感じさせる半具象だ。全体的に、単に写生的、写実的に切り取った風景画や静物画や室内画が少なかったことこそ、高知洋画の質のレベルの高さを裏付けているように思われる。

 複数審査員制と異なり、余計な気配りをしないですむ分、健康的な三泊四日となった。

 

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