折々の眼(41)  発想の現代美術系、技術の画壇系  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 いわゆる現代美術系の作品傾向が今、どうなっているのか。アウトラインを手っ取り早く把握したいのなら、「VOCA展」と「シェル美術賞展」の双方、あるいは、どちらか一方を必ずマークする必要があるだろう。

 昨秋「シェル美術賞展2008」を観て、現状に少なからず落胆した。必ずしも空間になりきっていない浅すぎる広い地に、若者固有の内攻的な図を添えたような平面 作品や、テクスチャーを曖昧化するペインタリーなものがほとんどである。まったく、造形的な多様性に欠ける。明らかに、審査員を意識しての賞狙い、といった印象が拭えない。それこそがまた、消費されることを前提とし、無抵抗に市場経済に流される現代美術のトレンド、といえばいえなくもないのかもしれない。

 昨今の現代美術系、画壇系を通していえるのは、発想や技術の多様性を排する類型的傾向が目立つことだ。現代美術系は意識の扉を常に広く外へ向けているといえば聞こえがよいけれど、何ということはない、アメリカ型のグローバルな市場経済へやすやすと呑み込まれているにすぎない。反骨的な個別 個性の抵抗の意識など、きわめて希薄に思われる。一方の無数の公募団体が形成する画壇系に至っては、相も変わらずの閉鎖社会。意識の扉を外へ開こうとせず、内側だけに向けている。アカデミックな作品づくりを積み重ね、″芸術信仰″というささやかな充足感に救いを求めつつ、サラリーマンのように、組織の中枢への階段を一歩一歩慎重に上がろうとしているだけに思われるけれど、どうなのだろう。

 次に、がらりと視座を変えて考えてみたい。発想、アイデア、コンセプト優先とはいえ、技術力がややもの足りない現代美術系を観ていると、このレベルなら私でも創れると錯覚させる軽さと自由がある。一方、画壇系の作品を顔前にすると、職人的な技術力はとうていかなわないとしても、その重くうっとうしい作風に、本当に現代を生きて呼吸しているのかという疑念が、ふと湧いたりもする。

 このように現代美術系と画壇系は、プラスとマイナスの両面をふところ深く、同時に内在させる。特徴とする殻をほどほどにとどめ、両方のプラス要素を互いに取り込むようにすれば、これからの日本の現代絵画一般 に望みがもてなくもないだろう。それにつけても、双方とも作風の類型化へ流れるのでなく、多様であることの豊かな意義をもう一度認識し、創造のベクトルをやせさせないように心掛ける必要があるのではないか。

 最後に駆足的に。ここ数年、人事面で珍現象が起きている。それまで画壇系などにまったく見向きもしなかった現代美術系の二、三の有力評論家が、公募団体展のレセプションでスピーチしたり、ギャラリートークに応じるなどの動きだ。これが甘い汁のせいでなく、発想の現代美術系と技術の画壇系の将来的な相互補完を見据えた前向きの歩み寄りであれば、それなりに歓迎できなくもないだろう。

 

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