折々の眼(44)  “球体絵画”系、佐々木 豊  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 反響が欲しい、少しでも手応えを感じたい。表現行為にかかわる誰もが内心、そのように切実に願っているのではなかろうか。美術評論めいたことで細々と生きる私だって、もちろん例外ではない。画家に対しては、いつだって請われるままに、紙面 や口頭で率直に作品の感想を述べるようにしている。それならばときには、私の拙文についてだって反応してもらいたい。しかし昨今の画家はどうも、自分が直接かかわらない活字メディアについては、ほとんど無関心を装っているように思われてならない。いわんや批評する立場のものなど、リアクションを密かに警戒するせいか、口を閉ざすことが多いのではないか。

 ところが、奇跡が起きた。この二月、日動画廊の「女性の輝き展」のオープニング・レセプション直前の会場で、絵達者、文達者、口達者で名高い国画会の佐々木豊さんが、私にそっとこうささやくではないか。「ことしの国展の出品作、実はあなたが季刊『美術屋百兵衛』に連載中の〈球体絵画論〉にいささか刺激されて描いたのですよ」と。天にも昇る気分とは、こういうときなのだろう。

 約二カ月後、私はいそいそと国立新美術館の第八十三回国展の佐々木豊油彩 作品「世界名所図絵」の前へ見参した。ウーン、なるほど。地球には神の視座ともいうべき中心があり、画家はそこから世界を代表する歴史的建造物を遙か眼下に鳥瞰し、それをシンプルに造形化して平面 的に把えている。これを眺望させられてすぐに想起したのが、日本でいえば、南蛮渡来の古絵地図のようなもの。

 私の唱える〈球体絵画〉は、画面が現実に四角でも、それをあえて球体状にイメージすることにより、四つの角をなくし、空間全体を無重力状態に見立てて自由奔放に描くこと。佐々木さんの今回の作品は、画面 空間を平面化したので、どうしても奥行が浅くなるので空気感覚がない。つまりは、「図絵」と題するゆえんなのだろう。

 それは、それ。けれど、もしかしたら佐々木さんには、この新作よりも私が頭に思い描く〈球体絵画〉に近い旧作があるのではないかと閃き、帰宅してすぐに、求龍堂版の豪華大冊『佐々木豊画集』をくくってみた。ある、ある。「あこがれ」(一九七二)、「眠る女」(一九八〇)、「通 勤時間」(一九九一)、「横浜風景」(一九九八)、「ウィーン奇想」「春」(一九九三)、「一九九七年夏」(一九九七)、「波乗り」「歌え踊れ」「流される」「ピアノデュオ」(二〇〇五)などだ。なかでも燦然と輝く傑作中の傑作が、超大作「ピアノデュオ」だろう。

 これでわかった。私の拙い〈球体絵画論〉などに刺激されなくても、佐々木さんはすでに一九九〇年代に入ってから、加速度的に球体絵画的に世界や画面 空間を変革し、現在へ至っていたのだ。さすが、というほかはない。反響の一端として、ことばを掛けていただいたことに感謝したい。

 

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