続・足裏庵日記(45)  ―主体性―  中野 中 (美術評論家)


 ふだん利用する駅周辺も禁煙地域になり、駅から100mほどの駐輪場の近くの喫煙所でいっぷくするのが、私の近ごろの習慣になっている。そこはちょうど桜樹の木蔭にあたり、暑い陽射しもさえぎるし、小雨くらいなら苦にならない。先日もそこでいっぷくしていたら、脇を通ったご婦人がこちらをにらみ、次いで手を顔の前でふって煙を避けるような身振りをこれ見よ勝ちにして通っていった。
 本当に煙が当たって気分を害したのなら、お気の毒なことをした、ごめんなさいである。が気になったのは、嫌煙権を勘違いしている、いや喫煙そのものを邪悪に思う風潮である。しかもこの風潮は、県や市町村の禁煙・分煙条例を背景に、つまりお上の権威をかさに着ての態度からきていることだ。確かに煙草嫌いな人にとって煙ほどイヤなものはないだろう。
 喫煙者の私でさえ新幹線の喫煙車輌に2時間も3時間も乗っていようとは思わないし、子供連れで気持良さそうに煙草をふかしている親の気持ちは理解に苦しむ。
 行政府が禁煙区域を設けたり、レストラン等での分煙を励行することは必要であろう。そして喫煙者はその約束は守らねばならない。その分、喫煙者への理解・保護も同等になされるべきだろう。
 そして何よりも、というのは条例は条例として、それ以前に喫煙者の周りの人々への配慮があってしかるべきだったのだ。ルール以前にマナーがあってしかるべきだったのだ。であればこんなに禁煙だらけ、規制だらけの世の中にはならなかっただろう。

 それにしても気になるのは、何でも彼でも規制しなければならない、一方で規制されれば唯々諾々と進んで受け入れてしまう風潮に私は危惧を感じるのだ。
 結論から言えば、煙草を吸うか吸わないかは個人の自由に帰結することだ。煙草は体に良くないことは誰でもわかっているのだから。それでも吸うか吸わないか、自分で判断し決断すれば良いことなのだ。一人ひとりの喫煙の可否も健康(肉体)も行政(国)の管理下にあると言わんばかり。健康の問題は、十分な情報が行き渡ってさえいれば、あとは一人ひとり個人に委ねてしかるべきだろう。断っておくがどんなことにもマナーはつきものであることをくどいようだが付け加えておくが。
 恐いのは、何でもお上が決めてくれることを待っている。決められたことに疑いもなく従うという自己判断力のなさなのだ。
 煙草だから未だ良いが、こうした風潮や流れが当たり前になってしまえば、次には違う領域にまでお上に踏みこまれてしまうことなのだ。先般の新型インフルエンザ騒ぎはいささかモノが違うが、そんな恐さを私は感じたりしたのだが。
 ところで煙草がない社会が来たらどうだろうか。不良少年やちょい悪親父の存在が、程度問題ではあるがなくならないうように、まったく煙草のない社会はバランスが悪いのではないか。水清ければ魚住まぬの謂もある。所詮煙草喫みの言では説得力は欠けるけれど。

 

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