折々の眼(47)  釜山応援ふるさと大使  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 ″生まれ故郷″とはいえ、時に追憶する感傷のよすがになることがあっても、今を生きるダイナモにはなり得ない。これまでずっと、そのように信じ込んできた。ところが最近、なぜか望郷の念しきりなのである。人並みに老境に入ったのかもしれない。そんな折も折、タイミングよく突然、釜石市の ″釜石応援ふるさと大使″の一人に委嘱された。

 私は一九四三年、太平洋に面した岩手県釜石市の母方の家に生まれ、小学校三年生まで過ごした。日本の近代製鉄発祥の地であり、三陸の漁業基地としても大いに繁栄した都市である。比較的若い世代なら、史上V7の偉業を達成したラグビーで記憶する向きも多いのではなかろうか。

 しかし残念ながら、世界の産業のエネルギー源が鉄鉱から石油へとシフトされるにつれ、駅前に君臨していた製鉄所の溶鉱炉の火が次々と消え、商店のシャッターまでが降り始めた。かつては県都盛岡に次ぐ人口が、ついにことし、四万人を割ろうとしているらしい。新日本製鉄で成り立っていた企業城下町の栄光と悲惨の軌跡の典型、といってよいのかもしれない。そこで現状を希望へと転換すべく、市では一昨年から ″釜石応援ふるさと大使″制度をスタートさせた。市外で活動する人材から選出し、再生へのアイデアを提案してもらったり、ボランティアでPRに一役買ってもらおうとする趣旨である。現在、全国各地域で流行する活性化戦略の一つだが、単に有名無実の肩書に留めるかどうかは、ひとえに個々の大使の自覚と行動力にかかっている。

 

 さっそく三十数年ぶりに釜石を再訪し、驚いた。昔は確かに活気に溢れていたけれど、街全体が製鉄所の煤煙で薄汚れて見えた。ところがまるで水で洗われたみたいに、すっかりピカピカに輝いているのではないか。自然が見事に甦ったのである。大渡橋から見下ろす清流と化した甲子川では、産卵を終えたサケが死に場所を求め、懸命に上がってくる様子が実に手に取るように観察できる。私の意識が瞬間、脳天を貫いた。経済的に低滞状態でも、市民の活力はまだ残されている。むしろ溶鉱炉が無くなり、かえって再生へのチャンスが到来したのではないか。これまでは何かと、製鉄所に依存するだけの″製鉄所市民″にすぎなかった。″釜石市民″としての誇りと自覚に欠けていたように思われる。これからは釜石の ″再生″でなく、市民の一人一人が新しく生まれる ″新生″釜石でなければならないだろう。現実に、市民にその気運が芽生えつつあるように思われる。またこの時期、どうすれば人間の失意を希望へと転換できるのかという研究テーマを掲げ、東大の社会学研究所が∧希望学∨という新しい学問ジャンルを立ち上げ、釜石がモデルケースとなり、市民が取材に協力している。すでにその成果が、『希望学』全四巻の講座としてまとまり、東京大学出版研究所から刊行された。

 私も大使として何が出来るか、考えている。

 

 

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