続・足裏庵日記(48)  ―顔ばせ―  中野 中 (美術評論家)


 平野啓一郎の小説『ドーン』(講談社)を読んだ。
 舞台は2030年代のアメリカ。監視社会が進んだ未来で、人々はTPOに応じて多数の自分を使い分け、内面は幾つもに分化し、その是非が政治的な論争にまでなる。そんな時代に、相手に応じて自分の内面を巧みに使い分ける生き方を、「分人(ぶんじん)主義」と名づける。


 平野さんは、分人とは具体的には顔の〈表情〉であり、「好きな人といる時間が長ければ、その表情をしている時間が長くなる。それがその人の〈個性〉につながる。だから、誰と一緒に生きていくべきかということが、大切になってくる」という。


 これは一つの予見であり、現在の実社会を生きることへの一つの提言であろうと思う。
 携帯電話やインターネットなどの、現代の未曾有に発達(ではあっても進化とはとても思えない)したメディアの中で、人々は果たして豊かな表情をしているであろうか。


 テレビジョンからしきりに垂れ流されるイケメンたちの顔は、表情が均一的で薄っぺらで、のっぺりしていて、私などにはむしろ気色悪いくらいだ。どれが誰だか、覚えられるべくもない。表情が均一的ということは、感情に個別性がないことになるのではないか。


 顔は人柄を表す、などはもはや死語に近いのか。人格を意味するラテン語のペルソナは仮面、つまりどんな顔でいるのかを問う言葉ではなかったか。顔は〈私は何者か〉という個々の人生、生きている物語と強く結びついていたのではなかったのか。

 電車内で、さすがに大声で携帯電話で話す人は減ったが、そのぶんメール交換に夢中に取り組んでいる。その姿は異様にも見える。そして帰宅するとインターネットに向かい合う。そうした繰り返しばかりの連続で、生の接触が極端に減っている。相手の顔とじかに対面し、目をみて対話することがない。生の接触が減った現代人から決定的に表情が失われていった。


 同じような顔が増え、一方通行的なメールで生の衝突を避けて感情を表に出さなくなってしまった。
 コンピューターのスイッチをオフにした途端に仮想空間は消え、生の人間と向き合うしかなくなる。しかし、生の接触の機会が少なく訓練も出来ていないから、感情が本能に直結されて暴発的な行動、衝動的爆発を招いてしまう。そういう図式になるのではないだろうか。

 ふと、脈絡もなく阿修羅像の顔貌(おもざし)を思い出した。昨年、東京国立博物館で拝顔した。奈良・興福寺の三つの顔と6本の腕を持つスーパー・スターは東京と福岡合わせて165万余の観客を集めた。
絵巻物や曼荼羅に描かれた阿修羅はたくましく荒々しい。興福寺の阿修羅は善悪のすべてを抱えこんで危うげに立っている。堀辰雄は〈なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう〉と書いている。向き合った人それぞれにそれぞれの思いを抱かせる顔は、〈生〉をまるごと生きていることだけは言えよう。

 

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