折々の眼(48)  やめられない、とめられない“宮坂本”2冊 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 若い頃、長野市でミニコミ紙づくりに携わったことがあるという、画廊宮坂の祐次さん。そのキャリアとセンスを活かしたユニークな書籍が、ことしに入って二冊同時に刊行され、ちょっとした話題となっている。一冊は美装カバーの文庫版で、自らの著書『画廊は小説よりも奇なり』(宮祐出版社刊、五〇〇円)。もう一冊は一九八五年から二〇〇七年まで発行し、″銀座に画廊宮坂あり″の印象を濃くした手書きタブロイド「宮坂通信」の縮刷完全復刻版(画廊宮坂刊、一〇〇〇円)である。


 双方に目を通すと、画廊宮坂二十五年の軌跡のおおよそが面白おかしくわかる。あちらこちら拾い読みするうちに、いつの間にやら全部を読み終える仕掛けとなっている。昔、「やめられない、とめられないカッパえびせん」というCMが風靡したけれど、まさしく、「やめられない、とめられない″宮坂本″二冊」といった感じなのだ。


 しかし、断わっておく。内容がカッパえびせんのように、決して薄っぺらで、軽いわけではない。一瀉千里に読ませるという意味であり、内容的にはユーモアと気骨に溢れ、油断もスキもならないのが、何ともたまらない。いや、何ともたまらないどころか、人間形成のカルシウム分となり、読者の体内にたまること間違いない。


 

   画廊宮坂とは、いったいどんなイメージを喚起させるスペースなのか。例えば『画廊は小説よりも奇なり』の巻頭に、「画廊宮坂では誰もが旅人になった」と題し、次のような詩が寄せられている。終連を省略し、参考までに紹介する。

 〈扉をおもむろに開く/そこはもう人生がさんざめく駅舎のようだ/画廊宮坂では誰もが旅人になった〉〈お茶や自慢のコーヒーで温かく迎えてくれる/駅長夫妻と個性豊かな女性駅員さんたち/プラットホームのベンチならぬ長椅子に腰掛け/四方へ視線をゆっくりと注ぐ/作品という名の四季折々の成果がいつも咲き競っている〉


 画廊が駅に喩えられ、作品が風景のように眺められるといった設定で書かれている。いかがです、一度、訪ねてみたくなりませんか。詩の作者が誰かは、本を手にしてのお楽しみ。


 また、これだけは強調しても、強調しきれないことがある。この文庫はおそらく、古今東西の出版史上、稀にみる ″奇書″であること。奥付けをしっかり凝視して欲しい。戦時中でもないのに、そこに検閲の項目があり、当人の名前が堂々と記されている。それどころか、「愛妻」という肩書さえ入っていて、思わず吹き出してしまった。長い読書歴を誇る私だが、こんなケッサクな奥付けに遭遇したのは、今回が初めて。ギネスブックものではなかろうか。″世界一の恐妻家″、宮坂祐次さんの前途に祝福あれと祈らずにいられない。読者よ、どこの夫婦だっていつも戦時中なのだ。

 

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