折々の眼(50)  髷よ、さらば 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

「ざんぎり頭を叩いてみたら、文明開化の音がする」。こうした俗謡が巷に流行したのは、明治四(一八七一)年頃だ。


 賭博事件で、土俵際ギリギリまで追い詰められた大相撲についてあれこれ考えていると、こんな文句に辿り着く。侍たちが丁髷を切って明治の文明開化を迎えたように、大相撲界もようやく、大変革の時期にさしかかったようだ。現在も頭に髷を結う力士社会を喩えるなら、まだ文明開化以前。時代意識の遅れからいうと、依然として江戸時代同然といってよいのかもしれない。


 このようなスポーツ界など、ほかに見当らない。スポーツ界に限らず、社会全体でも存在しないのではなかろうか。映画や芝居の時代劇役者たちがそのまんまの格好で、スクリーンや舞台から脱け出して歩いているようなものではないか(もっとも最近、ヘヤースタイルとしての男の髷が世界中で散見されるようになった。しかし、決して他から強制されているわけでない。あくまでも、自発的嗜好の現われにすぎない)。これはもう、一般のスポーツというより、見世物的扱いと評した方が近いのかもしれない。

 

 要するに大相撲界の実態は、″国技″と称する見世物的興行世界で、お化け屋敷のようにおどろおどろした閉鎖的封建社会なのだ。髷とゆかた姿の巨体が目立ちすぎるから、一般人のようにストレスを発散する場所が街なかに見出せないので、勢い、興行のない時間に所属する相撲部屋に籠り、こっそり花札や賭けごとに興じることがあっても、なんら不思議ではないだろう。

 

だから今回の摘発も今更、といった感がなくもない。したがって個々の力士や親方や床山を処罰すればよい、という単純な問題ではないのだ。日本相撲協会全体の組織的体質と深く関わっている。組織をいったん解体し、どんなふうに再生すればベストなのか、この際時間をかけて国全体で熟慮すべき刻なのではなかろうか。大相撲はすでに、純粋な″国技″でなくなっている。


 力士を見世物的に晒させるのは、もう得策ではない。髷をきれいさっぱり切り落とし、一人の健全なスポーツマンとして帰さなければならないだろう。そして″国技″としての大相撲を返上し、真にスポーツとしての相撲を世界へ普及させるのだ。講道館柔道を世界のジュードーにしたように、世界のスモウにしよう。将来的には、両国国技館を全面的に改築開放し、世界の拠点として「スモウ・ワールドカップ」を開催したらどうだろう。今回の危機こそ、グローバルなスポーツとしてのスモウを立ち上げる絶好のチャンスではないか。


 栃錦や大天龍びいきだった私。かつては、熱心な大相撲ファンだった。場所数が増えるに連れて、八百長問題や暴力団との関係が次々と取り沙汰されて興味が薄れ、楽しみだったテレビ桟敷から徐々に遠のいて久しい。


 スモウにもはや、髷は似合わない。どうして、そのことに気づかなかったのだろう。

 

topページへ
 essay indxへ