折々の眼(51)  「抽象水墨画」への期待 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 この秋ついに、『抽象水墨画入門』と題する十人の作家の作品とコメントの画集が刊行された。版元は、水墨専門の秀作社出版である。「ついに」とわざわざ副詞を用いて強調したくなるのは、「抽象水墨画」という概念を実作で提示するのが、日本の水墨画史上、おそらく嚆矢と思われるからにほかならない。内容的評価はさしおき、刺激的なこのネーミングを前面に突き出した勇気は、大いに敬意に値する。


 もちろんこれまでも、「抽象水墨画」と言い切らないまでも、現代水墨という呼称でなら、抽象系を対象とする画集や印刷物が、まったく刊行されなかったわけではない。しかしこのようにダイレクトに、「抽象水墨画」と明快に枠組を新たに設定したのは、空前のことではなかろうか。


 だがよくよく冷静に考えてみると、水墨というのは、もともとが抽象的なもの。それにもかかわらず、水墨が依然として、西洋画の写生や写実を踏まえるというより、そうしたカテゴリーに留まるだけの作品が主流となっている現状は如何なものか。水墨もまた、書道や生け花同様の伝統的習いごとの一つくらいに考える層が多いのは、とても残念でならない。プロを自認する指導者の一部でさえ、こうした認識を無意識のうちに容認してはいないだろうか。


 墨と水との相互作用で、にじみ、ぼかしなど、筆で独特の視覚現象を紙の上に誘発させる水墨技法。水墨の水墨たる由縁は本来、画材そのものに内在する神秘で深遠な抽象的性格にこそある、といってよいのではなかろうか。

 

先述したように、水墨とは元来、抽象水墨そのものを意味する。ところが明治以来、西洋絵画の圧倒的影響により、総体的に具象的写生、ないしは写実傾向へと大きく流され、現在の状況に至っている。


 水墨がもともと抽象的なら、あえて今更、「抽象水墨画」などと改めてネーミングする必要などまったくないのかもしれない。しかしこれまでの歴史的経過にいくらかでも待ったをかけない限り、水墨はアートでなく、単なる伝統的習いごととして、日本画の下位に甘んじなければならないままだろう。真のアーティストをめざす作家のなかで、その核となるのが現代の水墨作家であっても、決して不思議ではないはず。今回の画集の作家でいうと、例えばそれが稲垣三郎であり、鈴木昇岳であり、勝間田弘幸であり、荒井恵子であっても、決しておかしくない。更に、「墨絵展」や「墨・無限展」などのメンバーを加えても差し支えないだろう。


 来年十月号で、ユーキャンの「趣味の水墨画」が休刊するという。水墨の世界を支える基盤が脆弱化しなければよいが、と案じている。これまでは「質」より、「量」に依存しすぎたきらいがある。そろそろ「趣味性」でなく、「芸術性」を先行させなければならないのは確かなのだが……。「抽象水墨画」への期待が、それだけにますます膨らむ。

 

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