続・足裏庵日記(52)  ―日記―  中野 中 (美術評論家)


 『三岸節子 仏蘭西日記』の〈カーニュ編〉(1968〜71)が刊行されて半年余になる。B5判400頁の大部の本で、小生の怠慢さにも一因はあるが、愚痴あり意外性ありでとにかくその赤裸々さは覗き見趣味を満たすばかりでなく、興味深く面白く、また独白の間に記されたエッセーでは画家の覚悟や人生・芸術への深く鋭い洞察が綴られ、通読一過できない重みがあるのだ。


 序文に三岸太郎氏(節子の孫、a輪画廊主)が「言葉の壁をはじめ、お金の工面、口に合う食料品の確保、各地への取材旅行、長期滞在することによって生じてきた家族内の様々な問題。…」と書いているが、遺族をはじめ何かとかかわりあるご生存の人々が多いこの時期に、こんなこと公表しちゃっていいの、と思われることごとが、伏字や割愛もなく公表しちゃっているのだ。


 しかし、それらすべてが絵を描くための日常であり、絵を描くことで乗り越えるしかなかった。そのことに徹しきった凄さゆえであることに思いを致さざるを得ない。いま私たちが目にする作品群はそうした日常という舞台から生まれたものばかりなのだ。


 最初の渡仏(1954年3月〜55年7月)から帰国して14年。この間に次女も結婚し、好太郎の遺作220点を北海道に寄贈。母として妻としての役割から解放された時、画家としての自分自身を見つめなおすことになった。「5年間滞在して風景画に挑戦し、パリで個展を開く」という決意のもと、68年12月、黄太郎(長男)一家とともに南仏カーニュに移住する。その出発の羽田空港からこの日記ははじまる。

 節子には軽井沢に引きこもっていた時代の「山荘日記」もあるようだが、本格的に日記を書き始めたのは第2回目の渡仏かららしい。これらの日記やメモが抜萃として初めて公開されたのは、「生誕一〇〇年記念 三岸節子展 永遠の花を求めて」(2005年、朝日新聞社主催)展の図録であった。節子の心の動きと制作にかける思いがよく伺われる部分を、ずいぶん長いがここに紹介したい。


 「絵を描く。絶望的である。今ほど自身がみじめであることはない。何のために絵を描くのか。生計のためにか。野心のためにか。自己に勝つためにか。生きにために。命のために。私にあっては努力することが絵を描くという対象であるにすぎないのだろうか。(中略)失敗を重ね、絶望を繰り返し、自己の才能の限界まで疑ってなお生きている。(中略)残酷なまでに孤独である。人々の間に充たされるものを求めて得られず、もっとも純粋な到達点が孤独の中にあると信じた。実行した。骨を噛む悔恨と孤独。ギリギリの地点まで自己を突っ放して安心立命したいと希う。それをしなければ私は救われないのである。」(1962年、57歳)


 孤独に苛まれながら、それに打ち克つには絵を描くことしかない。そんな赤心が語られ、その言葉が一つひとつ私の心に突き刺さる。読む側にも重い。それでも読み進みたい。続巻の発行が待たれる。

 

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