折々の眼(52)  絵画の“総合芸術”性 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 この頃 ″球体絵画″と併行し、絵画の ″総合芸術″性について、あれこれ考えることが多くなった。 ″球体絵画″については、季刊「美術屋・百兵衛」に断続的に連載しているので、ここでは、後者についていくらか触れてみたい。


 昭和の戦後から現在へ至る日本の絵画は、だいたいが公募団体系とコンテンポラリー系に大別される。公募団体系がアカデミックな写実をベースとするのに対し、コンテンポラリー系の絵画は、支持面に絵具を付着させる物質にすぎない、と概念づけるところから新たにスタートした。


 結果は、公募団体系は相変わらず、画面に少し鬱陶しさがあるけれど、多様なイメージを競い合っている。コンテンポラリー系は、どうか。物語り性を排し、画面を物質化しようとする余り、ミニマル化が急で、結局、何もイメージさせない白いキャンバスのままがもっとも美しいとされ、ついに完全に破綻してしまった。その後、インスタレーションが出現する一方、コミック、イラスト、デザイン、写真などといった他ジャンルとのクロス・オーバが盛んとなり、現在へ至っている。かつてコンテンポラリー系しか認めなかったはずの美術評論家の一部さえ、何喰わぬ顔で、公募団体へ出入りするようになった。再び、具象の世紀となって久しい。
 

 

 絵画の深い魅力とは、いったい何なのか。もしかしたら、″総合芸術″性にあるのではなかろうか。ルネサンスの時代、巨匠ミケランジェロが彫刻の偉大さを説いた。対して ″万能の天才″レオナルドが、絵画の優位性を誇り高く主張した。結果は、レオナルドの勝ち。絵画には、最初から彫刻性が取り込まれているからだ。

  絵画こそ、常に多様であってよいのではないか。いや、そうでなければならないだろう。たとえ原理的には、平らな支持面に絵具を付着させる物質にすぎないとしても。それが時に、眼を核として耳、鼻、舌、皮膚といった観る者の五官のいずれか、あるいはそのすべてを刺激する。視えないものを見せ、聴けないものを聴かせ、嗅げないものを嗅がせ、味わえないものを味わわせ、触れられないものを触れさせる性格を秘めている。しかも観る者の立場からいうと、様式的に絵画は、建築でないけれど建築的、彫刻でないけれど彫刻的、版画でないけれど版画的、映像でないけれど映像的なのだ。


 深層心理的には、哲学でないが哲学的、宗教でないが宗教的、物語でないが物語的、演劇でないが演劇的、音楽でないが音楽的、といった要素も内在させる。


 このように観る者にとって、絵画は、単に物質であるだけに留まらない。もしかしたら、一枚の画布や板や紙の表面は、いわば ″総合芸術″の創造現場に等しいのではなかろうか。これから絵画の進むべき方向性と無限の可能性がそこにこそある、と思われてならない。

 

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