続・足裏庵日記(53)  ―散 歩―  中野 中 (美術評論家)


 妻が不定期に、急に思い立ったように散歩に出かける。妻には妻の、体調等への気遣いがあるのだろうが、私には気まぐれのようにしか見えない。私も妻の気まぐれに、気まぐれ的につきあったりする。そのコースも私には気まぐれに思えるのだが、妻には妻の企図があって、帰りに買い物ができるようにスーパー店をコースにちゃんと取り込んでいる。散歩のはじまりからして、妻と私には大きな齟齟がある。

 寒いこの季節は陽の高いうちにする。途中の小さな神社の境内の陽溜りのベンチでしばし休憩する。

 この辺りは愛犬チコとよく散歩に来たところだ。あの頃は、というのは15年ほど前のチコの死で終止符を打ってしまったのだが、毎日々々子供たちとチコの散歩をした。古びた神社の佇まいは変らないが、まわりの畑は減って家々がずいぶん建てこんできた。以前、この桜の下で莚を敷いて花見をしたことなども思い出される。子供が小さいころは良く最寄りの駅まで行って、列車や貨物の数を繰り返し数えて飽きなかったものだ…等々、次々と古いことが芋蔓式に思い出されてくる。

 あなた、何ぼんやりしてるの、行きましょう。いきなり妻の声に正気に戻る。再び歩き始めると、今度は妻から余りに現実的な目先の話になる。

 あなた、今夜は何を食べたい?

 樋が昨年の枯葉で詰まったままでしょ、入梅前に取り払わないとね。

 

 話は散々に飛んで、果ては半年先の嫁のお産の心配まで及ぶ。今更ながら女という種族は大変だなあ、と返事に窮して呆然としていると、

 あなたは何も考えていないのネ。

 とダメを捺されてしまった。うんざりして、傍らの小さな公園のベンチにへたりこむ。スベリ台と砂場だけの小さな広場で、小さな子たちが駆けまわり、もっと小さな子がその後を追いかける。若い母親たちはおしゃべりに花咲かりだ。

 私の娘もお兄ちゃんの後ばかり追いかけていたことや、息子のサッカーの相手をしてすぐ息が上がってしまったことなどを思い出す。

 どうしてこうも昔のことばかりを思い出すのだろう。歳老いたということだろうか。明日の原稿〆切りに頭を切り換えなければ、と思いは過るばかりで少しも現実問題に戻る気配もない。

 息子が小5のときの写生会で裸木の斬り落とされた枝が涙を流している図を描き、先生から叱られたのはこの公園の出来ごとだった。私は息子の肩を持ったのだが、以来好きだった絵を描くことを止めてしまった。

 やがて我々はスーパーにあらわれる。私はワゴンを押しながら妻の後を行く。妻の手にするものは、先ほどの問いに応えた品物とは違っている。それを咎めることもなく、私は黙々と後を追う。理由もなく、これでいいんだと思う。人生とはこういうものさ、とやや捨て鉢に悟ってみせた瞬間ヒラメいた。

 そうだ、これを書けば〆切りがクリア出来るぞ、と。

 

 

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