折々の眼(54)  3・11、そのとき私は 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 その日は、金曜日。格別な動きもなく、いつもの時間が、いつものように気忙しく流れるはずだった。この曜日は毎週、吉祥寺の歯科医院へ通って昼食後、銀座まで足をのばし、展覧会巡りするのが、ここ数年来の私の行動パターンとなっている。


 その日はまず、画廊宮坂へ楽しみにしていた「菅原智子展」を観に行く。フィレンツェ在住の彼女の作品は、イタリアと日本の伝統美と現代感覚が見事にミキシングされ、快かった。そうしたひとときも束の間、午後三時近くだろうか。突如として、会場の四階が左右に小刻みに揺れ始める。よくあるケースとタカを括るけれど、次第にエスカレート。嵐の難破船の甲板に立つみたいに、からだ全体のバランスが保てなくなる。エレベーターを避け、手摺りに縋りながら、階段を下りて外へ出る。大勢の人々がすでに、三三五五にたむろしている。路上の一箇所にはガラスが散乱、仰ぐと数軒先のビルの窓の一つが壊れている。


 こうなったらもう、展覧会巡りどころではない。一刻も早く帰宅しようと、銀座通りを東京駅方面へ向けて急ぐ。途中ふと、独立の会員の「高森明展」をやっていることを憶い出し、井上画廊へ引き返えす。″水門″の高森さんにしては珍しく(?)、黒地をバックに、裸婦の大胆なデフォルメがずらりと並ぶ壮観さ。画家と談笑中、馬越陽子さんなどが来場する。

 

 結局、午後から翌朝にかけ、東京のほとんどの交通機関が運休となる。画廊の武川さんの配慮に甘え、高森さんの個展会場にそのまま泊らせていただく。画廊側がベッドや枕などの代用品をテキパキと準備してくれ、夜食まで差し入れてくれたことに改めて感謝したい。携帯ラジオの地震や交通情報に時折り耳を傾けながら、高森さんと遠い故郷に想いを馳せたり、美術談議に花を咲かせながら一夜を過ごせたことは、貴重な″帰宅難民″体験となった。


 翌朝の午前十一時頃、東京駅から間引き運転でスシ詰め状態のJR中央線に乗車。帰宅したのが、三時近くだった。書庫と寝泊まり替わりに借りる自宅では、いくつかの本の山が崩れ原状に戻すのに、けっこう手間暇かかった。


 その夕方、馬越さんから電話が入る。銀座から中野まで九時間近く歩き、中野駅からようやく再開した地下鉄に乗り、明け方に自宅へ辿り着いたという。比較的優雅に一夜を過ごした私には、外の状況がまったくわかっていない。つい、「なぜホテルに泊まるか、タクシーを拾うかしなかったの」と、愚問を発したら、「ホテルは満員、タクシーも渋滞で動かないのよ」と、焦立たしげな声が返えってきた。どうやら彼女のケースは例外でなく、ほとんどが ″漂流難民″の軌跡を辿ったらしい。戦後まもなく、線路や線路沿いを蜿蜒と歩く人々の光景が眼に浮かんだ。そうだ、今は戦時下や戦争直後に近い状況なのかもしれない。とにかく、生きるしかない。

 

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