折々の眼(55)  3・11、そのとき釜石では 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 その日、銀座にいた。画廊宮坂の「菅原智子展」を展覧中、過去に東京で幾度となく体験した揺れとはまったく比べものにならない大きな地震に直面した。東日本大震災の余震と知ったのが、翌日になってからである。とにかく足早やに家路をめざしたものの、井上画廊で「高森明展」をやっているのを思い出し、立ち寄る。JR中央線が運休とわかったので、そのまま個展会場で画家と一夜を明かす結果になったことは、前回すでに書いた。高森さんは函館、私が釜石生まれという風土的親近感も手伝いゆっくり故里談義に花を咲かせた。そのとき釜石では、私の叔父夫婦が自宅二階から懸命に助けを求め、ついに力尽きて瓦礫の下敷となり、刻々と死を迎えつつあるということも、つゆ知らずに。同じ時間の流れながら、余りにも不条理な光と影のコントラストよ。


 鉄と魚とラグビーで知られる釜石市。そこで私は初声をあげ、小学校二年生まで過ごした。上京後には、文学やクラシック音楽に胸をときめかせたが、美術への傾斜は、いくらか遅かったかもしれない。二十歳代となり、釜石の製鉄所勤務の傍ら絵を描く叔父に或る美術雑誌を送られるに及び、徐々に興味を抱き始めるようになる。美術雑誌は、「美術グラフ」。後年、頼まれて私が推薦者の一人となり、美術評論家連盟へ入会した菊地明子さんの父親である菊地芳一郎さん主宰の、どちらかというと社会派的性格が特徴の雑誌だ。叔父が直接購読していたのがそもそもの縁となり、同誌に長谷川利行についてや展評を執筆することにもなったわけである。

 

 叔父の名は、村井進。釜石港を眼下に眺望できる狐崎城址に宏壮な屋敷を構える開業医の二代目の三男として生まれ、ことし八十三歳になっていた。その歩みを大雑把に辿ると、あたかも釜石の″光″でなく、″影″の軌跡をなぞるように、いかにも不運な生涯だったように思われてならない。一九三三(昭和8)年、明治時代に次ぐ三陸大津波に伴う大火災で、屋敷が全焼。わずか五歳のときだ。青年になると今度は、太平洋戦争下。製鉄所のある釜石は、敵の艦砲射撃の一斉砲火を浴び、あちらこちら逃げ惑う。戦後になると、大家族を支えるために進学を断念、復旧した製鉄所へ入社。東京から石川滋彦、吉井忠、寺田政明といった著名画家を講師として招くこともあった職場の美術部へ入り、めきめき腕を磨く。そして、結婚直後の一九六〇(昭和35)年。チリ沖地震津波に見舞われ、新居が水浸しとなる。武蔵野美術学園のスクーリングや美術館巡りで上京するようになるのは、そのあとだろう。やっと定年退職を迎えて十数年経ち、いよいよ絵筆一筋の生活にラスト・スパートをかけようとする矢先、三度目の巨大な地震津波の犠牲になろうとは……。個展を奨めても、「まだ、まだ」と断られた。目標の高さと誠実な生き方で、釜石画壇に無言の刺激を与えつづけたようだ。

 

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