折々の眼(56)  画面中の点描の縁取り 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 日本人の熱烈な印象派びいきに取り入る展覧会が、相も変わらず、今日も列島のどこかで開催されている。9月5日迄は「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」が、国立新美術館で。そのあと13日から11月27日までは、京都市美術館へと巡回する。大量動員を狙うテレビ局や新聞社がスポンサーとあれば、もはや ″開催″より、″興業″と称する方がふさわしいのかもしれない。


 この「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」、内容的には、「これ見ずに、印象派は語れない」というほどのレベルではない。もっとも反省を促したいのが、或る出展作品とカタログが、学芸的にまったく連動していないこと。カタログは厚い用紙で必要以上にボリューム感を露出し、いかにも売らんかな式丸出し。そのような体裁についてはこの際、脇へ置こう。どうしても許し難いのが、或る出展作品を会場で観た通りに、カタログに図版掲載し、納得のいく解説をしていない点なのだ。


 問題の或る作品とは、スーラの「ノルマンディのポール・アン・ベッサンの海景」(一八八八年)。キャンバスに油彩のタテ65・1、ヨコ80・9センチの点描だ。左上角から右下角へかけての対角線が丘となり、そこから海景を望む。空には幾筋かの雲が流れ、動感を醸し出す。シンプルな構図だが、繊麗緻密な点描で、実に堂々としている。ただ注意深く眺めると、画面全体が何か影のようなもので縁取られているのに気づく。

 

ライティングのせいで、額縁の部分が影になっているのだろうと考えた。なおも凝視して、ようやく判った。影ではない。スーラ自身がいくらか暗めに、点描で縁取りを施しているのである。そういえば、点描技法を創出したスーラは当初、自作に白い額縁をつける一方で、画面に点描の縁取りを施した美術史的事実を憶い出す。作品は、そうした試みのうちの一点なのである。そうか、これがそうだったのかと改めて感嘆、しきりに魅入った。


 帰宅後、さっそくカタログを括った。「ノルマンディのポール・アン・ベッサンの海景」の図版を観て、あっと声を挙げてしまった。なんと、会場で目撃したあの縁取り部分がカットされ、無いではないか。こんな馬鹿なこと、あり得るだろうか。会場で実見した作品が、図版と異なるなんて。次に、巻末の作品解説を読んでみる。点描による画面の縁取りについて、まったく触れられていない。


 印象派展といえばもう一つ、10月10日迄青森県立美術館で、ドイツのケルン市立ヴァルラフ・リヒャルツ美術館収蔵作品による「光を描く印象派展」が開催中だ。カタログを開くと、同じ新印象派のフィンチによる画面に点描の縁取りをした「北海沿岸の村」(一八八九)も出品され、そのまま図版となり、成立背景も丁寧に書かれている。地方美術館の方が観客側に寄り添い、商魂でなく、展覧会を質的に高めている好個の例だろう。

 

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