続・足裏庵日記(57)  ―上野の杜 ―  中野 中 (美術評論家)


 上野の杜へ身を運ぶと、何となくホッとする。気のおけぬ旧友にでも会ったような気分になる。上京以来、仕事がら40余年、今でも頻繁とまではともかく、良く通っている。


 上野の杜、正しくは東京都上野恩賜公園は、芸術・文化、そして歴史のメッカである。国立西洋美術館、東京国立博物館、国立科学博物館をはじめ、東京都美術館や上野の森美術館、東京芸術大学と同大学美術館があり、東京文化会館がある。日本芸術院会館もある。


 このほかにも、日本で最初の上野動物園があり、桜は都内有数の桜の名所でもあり、牡丹園もある。山を降りれば不忍池があり、そぞろ歩きにはうってつけだ。


 寛永寺や五重の塔をはじめ歴史的遺産も多々あり、彰義隊戦士の墓や、公園のシンボル的存在の西郷隆盛像もある。


 上野公園は、寛永2(1625)年、徳川3代将軍家光が天海僧正に上野の山に寛永寺を建立させたことに始まっている。上野の山が江戸城の鬼門である艮(うしとら・東北)に当たり、それを鎮護するためであった。山号を東叡山といったのは比叡山延暦寺(天台総本山)にならい、東の叡山の意である。ちなみに不忍池は比叡山から眺める琵琶湖に見立てたのだろう。それにしても比叡山に東叡山、琵琶湖に不忍池とは、あまりにスケールが小さい。しかし〈見立て〉や〈本歌とり〉は、いにしえからの日本の伝統文化である。さもありなんとも思うが、時の権力者や為政者はそうして権威の衣を着たがるものなのだろう。今に至るも千古一日である。

 幕末の慶応4(1868)年、戊辰戦争に幕府軍が敗れると幕臣の若者たちが彰義隊を結成し、上野の山に立てこもったが、村田蔵六率いる官軍の前に半日で潰走、これを上野戦争と呼ぶが、寛永寺の子院36を含めた70の堂塔迦藍は清水観音堂、五重塔などを残してすべて灰燼に帰した。


 明治に入り、根本中堂跡は大学東校(東京大学医学部の前身)の付属病院の地に指定、さらに陸軍病院や陸軍基地に決められた。


 そこに待ったをかけたのが、長崎医学校の教師として来日していたオランダの軍医ボードワンである。「かかる景勝閑雅な由緒ある地は、よろしく西欧都市の例にならって公園とすべきである」と政府に建言。明治6(1873)年、上野の山は日本で初めての公園に指定された。このとき同時に、浅草、飛鳥山、芝深川も東京市制定の公園となっている。


 上野公園生みの親ともいえるボードワン博士像が公園中央広場、大噴水の脇に建っている。


 上野の杜を西へ下りて不忍池をわたると横山大観記念館(旧居跡)や旧岩崎邸庭園などがあり、東京芸大を先へ進んで谷中へ入ると朝倉彫塑館や岡倉天心記念公園もある。この辺りは寺町で、ゆるやかな坂の路地から路地を歩いて少しも飽きることがない。


 いま、上野公園は再整備事業が進められている。都美術館が改装オープンする4月に併せて噴水大広場もリニューアルされた姿を見せる。イメージ一新となるか、楽しみである。

 

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