続・足裏庵日記(64)  ― 自 立―  中野 中 (美術評論家)


 〈きびきびと万物寒に入りにけり〉富安風生
 ある年齢を過ぎると、人生というのはいろいろなものを失っていく連続的な過程に過ぎなくなっていくようだ。大事なものが一つひとつ、櫛の歯が抜けるように掌から滑り落ちていく。
 それにしてもこの冬は格段に寒い。冷え込みが強い。妻が丹精した猫額大の小庭の木々はすっかり枯死してしまったように見えるけど、近づいて見ると、小さな固い芽をすでに宿している。冬の寒さに耐えて、いや耐えるというよりも寒さの中でみずからを鍛えているのだろう。だからこそ春になるとあんなにも生き生きと蕾をふくらませ、花を咲かせることが出来るのだ。
 寒さに負けていられない。枯木に学ばねばならない。この寒さ哀しさを乗り超えて明るい陽射しの中に飛びこまねば、それこそ先に逝ったものを悲しませることになろう。
 一陽来復、この言葉がことしほど身にしみることはない。
 〈寄せ鍋やたそがれ頃の雪もよひ〉杉田久女
 外は冷たい雨もようだし、冷蔵庫に残っている鮭と野菜類の寄せ鍋で暖まろうと、土鍋を棚から下ろしてビックリした。こんなに大きかったのか。具を入れても隙き間ばかりで、暖まるどころか冷え冷えとしてきた。
 日々、ひとり暮らしである。炊事、洗濯、掃除の三大必須をこなすだけで主婦は大変だとあらためて再確認したが、郵便等々における書類の多いことにも驚かされている。がいずれ、徐々に慣らされていくことであろう。
 とにかく、日々ひとりである。起きて一人、寝てひとり、くしゃみをしてもオモシロオカシクもない。

 独居生活、はまだ我慢できる。独居老人。この4文字の何という禍々しさ。
 ひとり生活は、18歳で上京してから結婚するまでの16年間、契約更新のつど自分の財布との釣り合いをはかりながら転々、下宿、アパート生活で体験している。が、高齢になってからの独居生活はもちろん初めてのこと。ずいぶん寂しいものだ。くしゃみばかりではない、放屁さえ独身の悲哀を増すばかりだ。
 孤独という奴は、妻や子があってこその孤独であって、日々ひとりの生活は、まさに厳しく己を思い定めれば、決して孤独ではなく、合わせ鏡を見るように、もうひとりの自分という存在に気づき、ひとり二人三脚を生きることになる。そして心の自分と常に対話することになる。
 〈寄せ鍋や湯気の向こうは誰も無し〉あたる
 絶対的にひとりなのである。大袈裟に言っても言わなくても、一人できりもりする人生、新しい人生ということになる。本当の意味で私自身の自立がためされている。何や彼や並べ立ててきた御託が何なのだったのか。どこまでがホンモノで、どこからが口先の徒であったのか。これから自分で自分をしっかりみつめれば良い。
 自分はどこから来て、なに者で、どこへ行くのか。
 ようやく一枚目の自画像がかかれようとしている。
 そう長くないこの先、果たして何枚の、どんな自画像が…。真の自立が問われる独居生活の始まりだ。

 

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