折々の眼(64)  タイトルとは何か 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 主体美術協会の機関誌「主体美術」93号が届いた。毎号、楽しみにしている。公募団体の機関誌というと、どこも会務報告や受賞者談話などがほとんどだ。パターン化した無味乾燥な内容が多い。例外的には、「主体美術」誌の取り組みが真摯で、総体的に問題意識が高いのではなかろうか。
 この最新号でもっとも注目したのが、事務局展覧会部の吉田正さんの「第48回展審査について」だ。とりわけ問題になったのが、作品のタイトルについてだったらしい。作品そのものとタイトルの間に生じる違和感である。具体的にどんな議論がなされたのか定かでないけれど、これは、今後の作品の在りようを問う意味で、これからもぜひ議論を深めてほしい。
 絵画は、色彩と線描との形象で成り立つ。決して、ことば(あるいは文字)ではないと断言し、ジャンルの自律性を強調した時代があった。それならタイトルなしでよいかというと、あえて「無題」としたり、作品の制作番号などをタイトルとして誤魔化すのがせいぜいだった。今でも依然として、作品のすぐそばに作家名とタイトルがべったりと貼りついている現状であるのを残念ながら否めない。

 

 問題は、ここから始まる。タイトルは、主題そのものなのか。それとも、他の作品と識別するための記号にすぎないのか。主題派≠ヘ、タイトルをまず決めてから、おもむろに筆を執る。記号派≠ヘ、作品が出来てから感覚的、即興的にネーミングする。どちらが正しく、どちらが間違っているともいえないのではないか。何よりも現在まで、「タイトルとは何か」と根源的に問われることがなかったのだ。それこそが、問題だろう。これは絵画に限らず、美術ジャンル全体の問題なのである。
 そのことは、一般の観客へも大きな影響を及ぼしている。ほとんどの観客は、真っ先にタイトルを確認して安心し、タイトルの範囲内でしか、作品を鑑賞していないのではないか。主体的に、もっと自由に作品を受容しようとする姿勢を得なければ、真実の鑑賞の扉を開けることなどできないはずだ。作家もまた、同様。こうした一般観客並みの鑑賞法に留まっていたのでは、自分の創造力を鍛え上げるのが難しいだろう。タイトルは、実は鑑賞の問題でもある。
 さて、困った。タイトルとは、いったい何なのか。如何に在るべきなのか。来年の「50回記念主体展」ではいっそ、タイトルについてのシンポジウムを企画してみてはどうだろう。一声掛けていただければ、私も歓んで参加したい。タイトルについて熟考することは、美術と文学についての遠くて近い、あるいは近くて遠い関係性について改めて問い直すことにもつながる。
 われわれ美術関係者が、日常的に何の疑問もはさまない用語にこそ、前進の鍵が隠されているのではなかろうか。

 

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