折々の眼(66)  実景を凌駕する風景画 

  ワシオ・トシヒコ(美術評論家)



              

 あらかじめ、断っておく。これから書くのはホンモノの風景画についてでなく、あくまでも、同じ視覚芸術としての映画のなかに登場した風景画の話である。
 ことしのアメリカのアカデミー賞最優秀外国映画賞に輝いたフランス映画「愛、アムール」を観た。作品全体もどこまでもシリアスだったけれど、何より衝撃的だったのが、ツーカットのシーンである。これがなければそれほど記憶に留まらなかったかもしれない。
 ストーリーは、こうだ。ピアノの元教師夫妻のパリの高級アパルトマン。妻が突然、病でベッドに臥す身となり、献身的な老老介護が始まる。懸命な介護の身心の一挙手一投足ぶりが、まるでドキュメンタリーのように、微細に伝わってくる密室劇だ。窓はほとんど一日中、カーテンで遮られている。展開は終始、生死を巡って暗く、重いけれど、夫妻の威厳とビンテージものの家具調度品などで、一定の格調を保つ。時間が刻一刻と緊張を孕み、ゆるやかに流れて行く。
 全編のちょうど中間にさしかかる頃だろうか。まったく唐突に、一点のクールベふうと、一点のコローふうな風景画が、それぞれ数秒ずつ静止状態のまま、スクリーンぎりぎりいっぱいに映し出される。これまで映画のなかで遭遇したことのない手法なので、すっかり仰天。もしかしたら長い密室劇がつづいたので、監督のミヒャエル・ハネケはこの辺りで観客のためにも外光を入れ、ちょっと息抜きさせたかったのかもしれない。

 

それならば手っ取り早く、密室の窓を大きく開け、外景を展望させればよいではないか。ところが監督は、そうしたパターン化した安易な方法を採らない。風景の名画で代用する。いや、代用というより、この場合、描かれた風景でなければならなかったのだろう。同じ風景でも、実景と描かれた風景とはどのように違うのか。
 実際の自然風景は、確かに現実的な存在を感じさせる。しかし日常的に見慣れているせいかともすれば、とりとめもなく軽く見える場合がある。対して描かれた自然風景は、どんなにリアルに再現しようが、虚景に違いはない。それだけに、描く側の心象や想念がいつの間にか絵筆を通し、いくつかの層を成して重なり合い、個性的タッチとなって表出される。
 映画に大写しされた風景画の場合、鑑賞途上の観客のそれまでに積み上げられた感興の総和が、そのまま風景画にのせられ、思いをいよいよ深くする。つまり、実景と虚景としての描かれた風景との質量が反転するのだ。実景が反対に虚景化し、虚景であるはずの描かれた風景が真景化する。両者のこの精妙なパラドックスこそ、監督の狙いだったのではなかろうか。シチュエーション次第では、描かれた自然風景が実景を凌駕するのも可能なことを、見事に証し立てたわけである。
 これまで、こんなに風景画の本来的に持つ力をまざまざと見せつけられたことがない。風景画への親愛と認識を新たにした。

 

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