夢遥  ゆめはるか

(全日本美術『今月の課題』1996〜2005年を単行本に)
全日本美術編集主幹 松原清 著  A5版 272頁 定価2000円
今月の課題 「 トルコへの旅 (2)」  編集主幹 松原 清

 夜の嵐の海での遭難は現在でも救助は難しい。懸命の救助にも関わらず、夜が明けると海岸には多くのトルコ人の遺体がうちあげられていたという。その数581名。しかし、串本の人達の救助努力でエルトゥール号の69名の乗り組み員の命を救ったのである。そして、遭難者たちは日本の軍艦でトルコに送り届けられ、無事故郷の地に帰り着いた。このことがきっかけとなり、日本とトルコの友好関係が始まった。当時のトルコ皇帝はいたく感激して、明治天皇に感謝の手紙に添え大変な贈り物をしたばかりでなく、救助に関わった串本民ひとりひとりに何百円(家1軒が建てられる程、200円?か)、の謝礼を行なったという。その返礼として、天皇からトルコ皇帝に刀一振りと甲冑ひと揃えが送られた。今でもトプカプ宮殿の武器展示室(元武器庫)の一角に展示されているが、日本人の観光客は殆ど見学していないようだ。私はどうにか探し当てて見ることが出来たが、甲冑は錆がまわって紐類はくすみ、刀は曇りが出ている。研ぎに出せば甦るのに・・・、と思った。現在もトルコ、トプカプ宮殿の秘宝が日本で展覧されているが、豪華な宝石類がメインで、親善の証拠品は日本に里帰りしていないし、こうした親善の秘話は説明されていない。 
 1890年のエルトゥール号の遭難は日本とトルコ友好の橋渡しとなったが、国と国の関係はそんな人情的なことのみで進まないことも事実で、当時、トルコと日本は共通 の敵を持っていいたのである。帝政ロシアの南下政策でトルコはクリミア半島を占領され、更に1887年には一

時イスタンブールさえも落とされるという崩壊の危機にあった。その南下政策は極東にまでおよび、ウラジオストクに海軍の一大根拠地を築いていた。更に1898年には旅順、大連を租借し、要塞化を進めていた。増大するロシアの脅威に対し、日本は抗議・談判を行なうが、逆にロシアは極東の兵力を増強して日本への圧迫政策を強化した。結果 、日露戦争(1904年)が勃発したのである。鴨緑江会戦、九連城占拠、遼陽会戦と日本陸軍は辛うじて勝利を収めてきたが、旅順では乃木大将が3度に渡る総攻撃で数万の死者を出し、苦戦の末203高地を占領し、最大の山場を乗りきった。  

  その頃トルコでは日本連勝の報に国中が沸き上がっていたという。また、ボスポラス海峡を封鎖し、ロシア黒海艦隊とバルッチック艦隊の合流を最小限にとどめる努力を影でおこなってくれていた。陸軍劣勢のロシアの最後の頼みは、当時ロシア最大の艦隊といわれたバルッチック艦隊の極東派遣であり、その艦隊の動静を逐一日本に知らせてくれたのもトルコであった。そして東郷平八郎率いる日本海軍は日本海海戦に圧倒的な勝利を得て日露戦争は終結を迎えることとなった。トルコではまるで自国の勝利かの如く新聞記事となり、市民の歓声が街を埋めたという。更にその年に生まれた子供にトーゴーの名前をつけた親も多くいたとガイドから聞かされた。遭難事件の人情と国益が一致した所以である。   続く


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今月の課題