夢遥  ゆめはるか

(全日本美術『今月の課題』1996〜2005年を単行本に)
全日本美術編集主幹 松原清 著  A5版 272頁 定価2000円

今月の課題 「日本の文字文化V」  編集主幹 松原 清

 前号は日本で109カ所に及ぶペトログラフの発見を記したが、もっと想像をたくましくすれば、神代文字はそうしたペトログラフが残ったものであり、縄文人がメソポタミア、中国他世界に散って何十代か後にその地の文字文化を作ったとも考えられる。その真偽は別にして、ある時期を境にして縄文人が著しく散逸したことは事実のようだ。気候の変化に伴い東へ東へ移動しているが、人口の少なくなった西の地へ大陸から多くの人々が渡ってくるという図式になったのかもしれない。残った縄文人(恐らくサンカ族)と移民族との混血、文化の交流も盛んであったと考えられるし、西を中心とした新たな文化が芽ばえたとしても不思議ではない。当然その頃は漢字以前の時代である。大陸系の人々との言葉の問題も相互に解決したかもしれないし、下って文字体系も地域ごとに確立していったかもしれない。

  現在、神代文字、サンカ文字、アヒルクサ文字、イヅモ文字、アワ文字などは、存在を真っ向から否定されているが、縄文、弥生時代の誤認識が後に明らかになったように真実は他にあるように思う。たとえば、これらの文字は、540年頃に仏教伝来と共に伝わった漢字と約100年ほど併用されていたと考えたら面白い。つまり、飛鳥時代は、大陸系の文化と日本固有の土着文化が混然となったカオスの時代であり、私達が歴史で学んだ中央政治舞台の中に、唐の存在の重要性があまり論じられていない。

 

 つまり、古代の日本が、663年の白村江の戦いに敗れたあと、唐の占領支配下にあったといういくつかの証拠があるのだ。そのひとつは、九州の太宰府が667年に筑紫都督府という呼び名に変わっていること。この都督府という名称は、唐の軍隊が他の国を占領した時に称するもので、かつて高句麗の都が平壌都督府、百済の都が熊津都督府と呼ばれた例があり、唐の占領軍司令部が置かれた外国の都を指している。従って太宰府が唐による日本占領支配の拠点となっていたことは明らかである。もうひとつは「日本書紀」の天智天皇関係記事中に天智4年、唐の使節団が254人訪れ、同8年、9年には2000人という大量の使者が訪れたとある。この時代、2000人もの使節団では考えられない数字で、占領軍司令部の管理要員であったことを暗示している。

 中国では覇者が前の政権を滅ぼした時に、いわゆる焚書をおこなっている。その地域に伝わる固有の文化をことごとく抹殺し、自らの正当性を立証するための歴史の改編が盛んに行われている。生活文化の中でも、尺度の単位が改変されるなど、唐の時代にもその伝統は受け継がれていた。

 こうした経緯を踏まえると、「古事記」「日本書紀」以前に日本の歴史を綴った書物が、占領軍による焚書令により、この期を境にして一切合切抹殺されたという可能性が浮かんでくる。いずれにせよ、その時を境にして漢字が我国の制定文字となり、初めての漢和辞典「倭名類驟鈔」が発刊されたのである。   (完)


topページへ
今月の課題