ななこのArt interview  〜作家の小宇宙を訪ねる〜 (15)

清  原  啓  一

『自分の生きてきた気候、風土、そういうものの上で自分をしっかり持っていきたい。 』

 残暑の厳しさ続く中、洋画家、清原啓一先生宅を訪ねた。清原先生は1927年富山県砺波市生まれ。やはり絵は若い時から興味を持っておられ、富山県師範学校美術教師であった曽根末次郎氏に習い、その後川辺外治氏に石膏デッサンなどを本格的に習った。卒業後は東京に出て絵描きになるという夢は大きく膨らんでいたことだろう。しかし本家の長男という環境の中、自分の夢を直截に口に出すことは出来なかったという。美術学校への進学は両親の大反対もあり断念せざるを得ないと覚悟を決め、明治大学政経学部に入学、上京を果 たした。そこで氏は大学に通う一方精力的に絵の勉強を開始するのである。「この頃が一番苦労した。でもその時は夢中でね、橋の下に寝てもやるんだと思ってがんばった。本当に好きだったんでしょう。好きじゃないとやれないものだからね。」と振り返られたが、大学卒業の年に日展入選という結果 を出すのである。その後辻永氏に師事、光風会を発表の場としながら日展に出品し、59年特選、94年内閣総理大臣賞、2002年には日本芸術院賞、恩賜賞を受賞、引き続いて日本芸術院会員に就任し、一躍斯界の中心的な存在へと登りつめた。  
  さて、清原先生というと鶏がまず思い浮かぶが、作品に鶏が登場しだすのは1954年頃からである。そのモチーフを選んだ契機をお聞きした。「日展をはじめ、他の洋画団体展を見てもほとんどが人物画、風景画、静物画です。こんなんじゃ面 白くないな、何か人がやっていないことをやった方がいいなあと思って。それで考えついたのが鶏。田舎にいた時鶏を飼っていたから鶏のことについては基本的な生態、性格をよく知っていたし。また鶏ってしょっちゅう動いているからなかなか描けない。パッと見ていいポーズだと思ったら最後まで一気に描かないといけない。剥製を使えば描けるけど生きてない。そんなもの描いてもしょうがないから。だからそのために一日50羽のクロッキーを描く訓練もした。常に勉強です。」この探求心こそが一瞬を切り取ったような鶏の動き、溢れ出るような空間感を存在させているのだろう。






第26回日展、内閣総理大臣賞作品「散 策」

 そして、現在の清原先生の制作に影響しているだろう理念についてお伺いすることが出来た。それは1964年に行ったヨーロッパ諸国への旅が大きなきっかけとなっているようだ。「向こうのものが最高だと思って見に行ったのですが、しかし現実にはちょっと違っていたのです。言うなれば終わってしまった、昔のものを追求している。それに何よりもヨーロッパの真似事をしたってヨーロッパ人になれるわけないということ。そんなことは向こうから見たら滑稽なものだし、そんなことに一生をかけても目的達成はできるもんじゃない。だって私はどうしたって日本人なんですから。これは変えることができない。それならむしろ日本本来の昔からある文化を基準にして生きていった方がいいんじゃないかと。それが一番本望じゃないかと。でも人間には美しいものは美しい、そういう共通 するものが根底にあると思います。何とかして自分の生きてきた気候、風土、そういうものの上で自分をしっかり持っていきたい。それが世界の人間に共通 する美へとつながっていけば一番だと思うし、基本的にはこういうことが自分を生かす最高の道であると思っています。」確かに清原先生の鶏や最近の風景画には、日本人である私達に大切な何かを訴えてくるものがある。自然の空気、土のにおい、私達が忘れてはならないものである。



部屋に飾られていたルオーの作品生