ななこのArt interview  〜作家の小宇宙を訪ねる〜 (18)

郷 倉 和 子

『同じ梅を描く時でも毎回自分の中に決まり事を作って 進んでいけたらと願っております。』

 風趣に富んだ気品あふれる花鳥画で知られる郷倉和子先生は、大正3年東京都に生まれた。父は近代日本画の代表的な作家、郷倉千靱である。日本画に囲まれた環境の中で育ったことで、幼いころから絵を描き、やはりその感性も高かったようだ。「子供の頃は普通 に結婚して普通に暮らしたいと思っていましたが、絵を描けば先生から褒められたり、貼りだされたりしていました。そして、高等女学校4年生の時、女子美卒の美術の先生が私の描いた笹の絵を皇太后様への献上画に選抜したのです。皆から「すばらしいわ!」と言われ、とても誇らしくうれしかった事を覚えています。」その後美術の先生の薦めで昭和8年女子美術専門学校へ入学。「一学期の終わりに必ず新案というテストがあり、芸大の先生が学年から5人ずつ優秀作品を選ぶのですが、私はずっと一番でした。」そう語られたように昭和10年首席で卒業、翌年には院展入選を果 たされている。当時、女性の入選者があまりいなかったのに加え、若干22歳での入選。新聞社が取材に来たという。だが25歳の時には第二次世界大戦が始まり、そんな中での28才結婚、31才のご長男出産、大変な時代を強く生きてこられたと思う。「当時は女性が結婚して出産することは当たり前のことですから、それが絵に影響したかはわかりませんが、育児と制作の両立は大変なことでした。でもこの年になってみると『若い時の苦労は買ってでもしなさい』という昔の人の言われたことは的を得ていると思いますね」と当時を振り返る。家事育児に専念したこの5年を除けば院展に毎年出品し、入選されている。常に誠実に歩み続けてこられたこの強さが、柔らかく包み込まれるようなものとして今の郷倉先生の作品に生きているのではないだろうか。





第74回院展、日本芸術院賞・恩賜賞受賞作品「靜日」

 47歳の時には父・千靭とインド、香港、シンガポール等へ旅行へ行き、更なる作風の開拓へと向かう。「当時外国の草花は、特別 な施設へ行かなければ日本で見ることは出来ません。ですから、南国の鮮やかな花の色、草の色は私にとってとても魅力的でした。帰国後制作した作品はとてもカラフルに、また大胆になりました。その後もヨーロッパ、台湾、タイへ行き、それぞれの素晴らしい文化、興味深い名所、旧跡に心打たれましたが、外国へ行った数だけ日本が美しいし、いいところだと感じましたね。」何気ないちょっとした瞬間を美しく切り取るには、自分の生きてきた風土や生活をしっかり捉えること。旅行はその目を養うことが出来るといえる。こうして戦後のモダニズムの中で表現の試行錯誤を繰り返し、才気を発揮し、平成2年日本芸術院賞・恩賜賞、9年に日本芸術院会員就任、14年には文化功労者として顕彰された。  
  近年は梅をモチーフにした作品を多く描き、正に日本人の情緒をそこはかとなく描きだされている郷倉先生。その梅のことをお聞きすると「庭には十数本の梅の木が植わっています。どの木も毎年がんばって花をつけてくれますが、私が作品にしようとたくさん写 生をした木は、翌年いつもより多くの花を咲かせるのです。本当に可愛らしいというより、愛おしくなる。そして同じ梅を描く時でも毎回自分の中に決まり事を作って進んでいけたらと願っております。」と庭の梅を愛しむ言葉が返ってきた。この先も『梅』をテーマとした作品を描かれると思われるが、『日本の心』を『梅』を通 して描いている、そんな思いを今更に強く持った。花言葉「高潔な心」は正に郷倉先生そのものである。



先生の思い入れのある作品 第64回院展「霧の中から」