ななこのArt interview  〜作家の小宇宙を訪ねる〜 (19)

栗 原 蘆 水


『先人の言葉、心に留めておきたいと思うものを書いていきたい。


 書家、栗原蘆水先生は広島県の福山で育った。小学校の頃から習字は得意だったという。後に師匠となる村上三島先生と出会ったのは高校2年生の時。福山で戦後まもなくかな研究の一大拠点を築きつつあった一楽書芸院(桑田笹舟主宰)の若者グループ青穹社に所属していた頃で、笹舟氏は漢字系作家を講師として招聘していた。「高校卒業した時に一度『うちへ来ないか』と誘っていただいたんですが、親も反対するし、デパートに就職することにした。でも4年頑張っても大卒1年目の人が給料が上だという、実力を認めない学歴社会に疑問を感じて。だから退職して、村上先生の内弟子となったんです。私は戦後書道への脱サラ第一号じゃないかな。」そうして大阪で5年半に及ぶ書生生活が始まったわけだが「書生というのは教わるものじゃなくて、言い方は悪いけど盗むものでした。」という。実際月謝を払って通 うような弟子には得ることの出来ないものを得られている。「コピーなんてない時代だから、三島師の範本の釈文等は手書きするしかありませんでした。それが私の役目ですから、自然ときちんとした字が勉強できたんですよね。また村上先生は私が書生において頂いた頃が一番沢山の古い文物を集められていた時期です。手に入れてこられたものを一番先に見せてもらえるし、本物を前にいろんな話を聞けたことは誰も経験できない勉強になった。これが鑑識眼となった。」その後、栗原先生自身の古い文物収集熱が加速した。それを「村上ウィルスに完全に感染した」と茶化されるが、その姿勢は半端でない。時には家を抵当にお金を借りてまで手に入れた物もあるという。平成15年に郷里福山に福山書道美術館が開館された際、長年収集された中国明・清時代の書画・文房至宝などを寄贈。今もずっと続けておられ、訪れる多くの人を魅了し、書文化に対する関心の輪を広げる源となっている。







25回日展  日本芸術院賞受賞作品   「菜根譚一節」」

 村上師は常に「私の真似をするな。私と違う文字を書け」とよく言われていた。それで東坡の晩香堂蘇帖や墨跡を中心に古典巡礼をし、自分の書を探し求めた結果 、村上師の流麗なものに対して単体で響く現在の文字が自分のスタイルになったのだという。「何でもいいから古典に恋人を作る。5年経ったら他の古典に浮気をしてもいいから3年は浮気をしません、っていうような古典を作る。それからその古典を基盤にして現代書、自分の字を書いていくことが大事だと思う。」このような模索を経て独自の書世界観を確立されてきた栗原先生は昭和37年特選、63年日展文部大臣賞、平成5年日本芸術院賞を受賞された。

 現在日展理事や日本書芸院理事長として書道界の在り方を考え、後進の育成とともに広い視野で文化の発展に尽力されている。そのバイタリティーは他の追随を許さない。今後の方針を「素直な字で、でもそこから人間味あふれる豊かな字が書けたらなと思ってます。そして年とともに自分の中で選文が大事になってきてるんですが、読んでくれて『なるほど、人生の一角を言うてる言葉やな』とそんな見方をしてくれる書道展ができたらいいですな。先人の言葉、心に留めておきたいと思うものを書いていきたい。」と語る。多くを見聞きしてそれを自分の蓄えとする中でも、一人の人間としての考えは常にしっかりと抱きながら歩まれてきた栗原先生の強さを知った取材であった。



収集の「光悦 消息軸」