ななこのArt interview  〜作家の小宇宙を訪ねる〜 (21)

古 谷 蒼 韻


『書の格調を求めると同時に自分自身をどうみつめていくか


 京都宇治の平等院に程近い場所にある書家、古谷蒼韻先生のお宅を訪ねた。1961年の日展特選で地位 を固め、81年内閣総理大臣賞、84年には日本芸術院賞を受賞。その後実に22年、書分科の3名という芸術院会員枠の厳しさを改めて知る思いだが、昨年末晴れて日本芸術院会員に就任された。今年82歳になられる。





   中野越南先生の書論を 小書きに書かれた  第38回日展「鳳麟」

 「私の書作の深層に流れているものは、初めて書を教わった中野越南先生の思想です。無心の書が最も大切とされ、境地の高い書をと教わったことです。」と静かに語られた古谷先生。その出会いは京都師範学校4年生の時。「自分が書いた半紙作品が貼り出された事がうれしくて、選科に書道を選んだのです。その時の先生が中野越南先生でした。自分で拓本を買って勉強しなさいという生徒の自主性を尊重した指導法でした。私も孫過庭の千字文や壊素の自叙帖を買って学びました。教科書風の書をかいて見てもらったら『起筆や収筆で細工して飾り物をつけたようなものは真の書ではない』と言われた意味がわからなくて、三カ月程授業に行かなかったこともありました。その後非を悟って改めて直接指導をお願いしたのですが『専門家になりたいものは現存の人の指導をうけない方がよい。中国の古典を自らの感性と解釈で習うべきです』と門人になることを拒否されました。だから私は中野先生の門人ではなく私淑したという感じです。5年生の時には風信帖を自分で臨書して、それを京博の特別 展観の場で本物の風信帖と比較するという今から考えると不見識極まることをしましたが、而し随分と勉強になりました。こんなことができたのも中野先生の指導のおかげです。感謝しています。以後独学で古典を学びました。そして大河内鳧東先生の寺院で5、6人の集いをつくりました。水曜会と名付け月一回水曜日に書、他の芸術、音楽等を語り合う楽しいが厳しい研究会をもちました。師風追随派と師風追随否定派に別 れて議論されていたのですが、私は途中から師風追随否定派となりました。それは先生とは線の質が違うと身にしみて解ったことと、師風追随派だと一番安全だがそれでは物真似で終わる。自分の世界を創る一家の風をなさねばと決心したものです。」当時は日展に書が加わり、日展を中心にして書壇の再構築がなされていたが、越南師は書壇的な生き方を好まなかった。しかし、辻本史邑先生が京都で教場を開かれたのを機に中野先生の諒解を得て山内観と共にその門を叩くのである。日展に出品し「京都に変な字を書く若手がいる」と言われたのもこの頃である。だが、数年後に辻本師が急逝、辻本師の高弟であった村上三島氏に師事することとなるのである。村上師は王鐸の研究家で知られ、辻本師亡き後唯一の日展審査員として関西の書壇の中心的存在であった。



昨年蒐集の良寛「般若心経」
しかし、その村上師にも手本を一度ももらっていないと聞く。自分の方向性を自分でしっかりと捉えながら歩んでこられてきたのは真に越南師の精神そのものをずっと持ち続けているからといえよう。「当時の私の書は些か荒っぽく放埒で必ずしも良いとはいえなかったが、村上先生からは正統派の方向をしっかり教えていただいた。村上先生からは執筆法での悪癖の御指摘をうけ、それが契機で線の重要性についても深く考え、いろいろ工夫を重ねるようになりました。書は線芸術。素晴らしい良い線が書ければ必ず良い書になる。良い書の成立条件は格調と人(個性)が高い次元で合致した時です。良い線が出れば漢字もかなも一緒だと考えています。」正に自身の精神世界の確立と、格調への技術面 での錬磨とが両輪となって作品に繋がっているのだということが窺われた。  
  古谷先生の書斎には村上華岳の絵が掛けられているのだが、「村上華岳の言った『この絵を見よというのはこの人を見よというこである』を座右の言葉としています。人というのは根であって、作品というものは咲いている花です。結局書も人なんです。書の格調を求めると同時に自分自身をどうみつめていくかというこの両輪で初めて作品はできるのですね。」と、絵を見つめながら言われた一言が強烈に心に響き、今も印象深く残っている。