ななこのArt interview  〜作家の小宇宙を訪ねる〜 (23)

梅 原 清 山


『自分の美学を極力高める目標に向かい、字形なり余白なり、 線なりを工夫するわけですが、
それがこだわりなく自然に 楽な気持ちの中で書いていけたらと思っています。


 東京新宿にお住いの書家、梅原清山先生の書斎を訪ねた。梅原先生は大正11年横浜生まれ、今年85歳になられる。日展参事、読売書法会常任総務、謙慎書道会顧問等重職にあり、書道の発展、継承に尽力しておられるが、幼い頃書道は苦手なものであったと聞く。それが一生のものに変わったきっかけは入学した横浜国立大学(当時は横浜高商)でのこと。「大学に通 っていた時、小学校の同級生が競書雑誌を持って勧誘に来たのです。当時書道は嫌だったから強く断ったんだけど、無理やりに入会させられたのです。初めはちっとも書けないし、その誘いに来た友達に勉強では負けたことなかったから悔しくてね。でもだんだん上達しだしたら面 白くなってきて、いつの間にか書道が身から離れなくなりました。」学校が商業系だったことから会計事務所に勤めたが、書道がすっかり好きになっていた先生は将来の天職を経理にすべきか書道で立つべきか、思い悩んで易者に相談に行ったという。そこであなたは書の方に行く方が絶対成功するから決心なさいと言われたそうだ。当時既に競書マニアになっていた先生は自分も書道の機関誌を出したいとの強い思いが募り、36歳の時書人社を創設、月刊機関誌を始めた。税務署関係の人たちにペン字から細字、楷・行・草書と常識の範囲全ての手本を書き、その枚数も毎月一千枚を越える量 となった。






平成11年度  日本芸術院賞受賞作品   「漢鐃歌三章」

 そんな時ふと自分を振り返った先生は「大勢の人に対してこういうことをやっているけど、自分の字が確かなものじゃないと無責任になる。これは然るべき先生に就き、正しい勉強を身につける事の方が肝腎だ。」と悟った。そこで書家名鑑を手に@日展審査員クラスであることA男の先生Bかなは自分の性に合わないからダメC師事して通 勤可能な距離D自分の年齢より10歳くらい年長の先生、この5つの条件をもとに探していった結果 、当時の書家の中で昇竜の域にあった青山杉雨先生に行き着くのである。しかも出会いは突然であり「縁」の不思議さを感じさせられる。「税務署への仕事で偶然時間が空き、初めて等々力に青山先生を訪ねると庭先にステテコ姿の先生がいらして。入門を願い出たら『まあ、上がれ』と、その日のうちに入門許可していただいたのです。今思うと失礼極まりない無鉄砲なことだったと思っています。それで、呉昌碩の字を目の前で臨書して下さった時の筆捌き、それを見た瞬間の感動は今でも忘れられません。毎週土曜日にその手本を見て書いて持って行くんですが、上手くいかなくて一千枚は書きましたね。何回か通 ったときに先生が『君は随分勉強しているんだね、僕の書き方によく似せられたな』と褒めてもらった時はさすがに飛び上る程嬉しかったのを覚えています。」また、青山先生が書かれている篆隷を見て成程という筆捌きに感動し、その筆運びの様子を思い出しながら見様見まねで書いた篆書作品がある展覧会で青山先生の目に止められた。これを機に篆隷を中心に習うようになり、その翌年(37年)毎日展で秀作賞、同年続いて日展に初出品初入選を果 したのである。「私は青山先生に就かさせて頂いたおかげで、古典を勉強しなければダメだ、自己流じゃ話にならないんだと気がついた。書は伝統芸術であるだけに古典の勉強をそこそこに創作を焦っては決して宜しくないですよね。」古典とともに青山先生の全ての書風を懸命に追いながら実力をつけた梅原先生は49年日展特選、平成7年内閣総理大臣賞、12年には日本芸術院賞を受賞されたのである。先生は「出会い」の大切さをよく言われる。しかし、小さな一つのきっかけや出会いを見過ごすことなく、しっかりと掴み取る強さがあったからこそここに至ったのだと思う。




先生の思い入れのある作品  第22回日展、日展会員賞「無礙」

「出そうとしなくっても自然にでるのが個性。自分の美学を極力高める目標に向かい、字形なり余白なり、線なりを工夫するわけですが、それがこだわりなく自然に楽な気持ちの中で書いていけたらと思っています。」と、今後の自身の書の在り方を語られた言葉が爽やかな印象として残っている。